第7話 怒られて当たり前

 ぽたり、ぽたり、と有栖の髪や顎の先から垂れるお茶。

 熱かったけれど、すぐに冷えてきてくれたのはありがたい。そして、顔にもかかったから泣いていてもこれでバレない。

 有栖が考えていたのはこんなことだが、有栖にお茶をかけた張本人の裕翔は真っ青な顔をしていた。


「あ……」


 ごめん、と裕翔が謝るより先に、玲が思いきり振りかぶって裕翔の頬を叩いた。

 樟葉に殴られたほどではないが、パチン!と結構な音が響く。


「どこまで最低なの!?私の友達に…有栖に、なんてことしてくれるのよ!」


 泣きながら兄を殴った玲の顔は悲壮そのもので、有栖は樟葉にハンカチで顔を拭われていた。


「有栖、火傷は」

「してない」

「…おい、有栖?」

「…言ったじゃない、もう、いいって」


 有栖の目にあるのは、諦め。怒りは浮かんでいなかった。

 どういうことだ、と裕翔は困惑するが、有栖の背後に見えた桜華の怒りの凄まじさに身震いする。


「(あれが、千年桜の精霊…!)」


 言ってはいけないと理解はしている。だが、あの力を妹のものにできないか、と思ってしまったから、自然と口が動いた。


「そこの千年桜の精、その女よりも僕の妹の加護をする気はないか?」


 駄目だ、そう理解しているのに、口からは家のための利益を求めるだけの言葉がすらすらと出てきてしまったのだ。

 ぎょっとした玲が、慌てて姿を見せている桜華に否定をしてみせた。


「いらないです!だって桜華様は有栖をとても大切にしておられます!兄の戯言は無視してください!」


 必死すぎる玲を見てか、こいつには害は無いと判断したらしい。有栖の友人だから、玲に危害を加えるわけにはいかない。

 だが、裕翔は別だ。桜華は底冷えするような冷たい眼差しで裕翔を睨み、ゆっくりと腕を持ち上げる。そして、ただ一言、こう告げた。


「疾く、去ね」


 え、と声を出す暇なく、裕翔の体は吹き飛ばされ、壁へと叩きつけられてしまった。


「かは、っ…!」


 身構える暇もなく、強かに壁に打ち付けられた背中が悲鳴をあげる。しかし壁に縫い付けられたまま、何故か床に落ちることもなく、裕翔の体は宙ぶらりんになっていた。


「ぐ、…」

「…のう、お主。そのよう動く口、縫い付けてやろうか。それとも…」


 裕翔の体は桜華の腕一本で、持ち上げられたままだった。

 首に手をかけ、腕一本で持ち上げられ、ぎりぎりと容赦なく裕翔は首を絞められている。


「このまま、縊り殺してやろうかえ」

「ぁ…っ…」

「わらわは、姫様を第一に考えて動いていた。姫様の言うことがわらわにとっては全て。じゃが…今は別じゃ。姫様に害為すものは、殺す」

「…っ、やめ、ろ」

「姫様が、お前に何をした」


 ぐぐ、と桜華の腕に、指に、力がこもっていく。


「姫様は、お前に、何の害を与えた!」


 みし、と嫌な音が聞こえる。

 あまりに強く首を絞められ、圧迫されることで血流が滞り、どくどくと嫌な音が頭の中にこだましていく。

 まずい、このままでは死んでしまう。だが、有栖には助けを求められるわけがない。どうしたら、と必死に裕翔は考えていた。


「……桜華」


 そこで、一筋の光が差した。

 有栖がただ、静かにひと言、桜華の名前を呼んだことで力が急激に弱まり、興味をなくしたように裕翔の体を桜華はぽい、と投げ捨てた。


「げほっ、げほげほ、かは…っ、はぁ……はぁっ……!」


 慌てて息を整えつつ、さすがに兄の様子が心配だったらしい玲も、駆け寄ってきて裕翔の背中をそっとさする。


「お兄ちゃん…大丈夫…?」

「だ、…大丈夫、だ…」


 何故、桜華は興味を無くしたのだろうと思って有栖の方を向けば、桜華の頭をよしよしと撫でている有栖が見えた。

 有栖ならば、桜華に触れられる。そして桜華自身が、それを望んでいるから、有栖に対してだけはとてつもなく従順だし、一つ一つ、意志を汲み取って動いてくれる。


「(助けて、くれたのか…?)」


 酷いことを言ってしまったのに、と思い、慌てて裕翔は立ち上がって有栖に謝ろうと口を開きかけたのだが、聞こえてきたのは無感情ともいえるほど、冷たい有栖の声だった。


「駄目よ、桜華。無駄に力を使っちゃ」

「しかし姫様…!」

「言ったでしょう、もう、いいって」

「……姫様……」


 じ、と桜華は有栖を見つめる。そこに嘘偽りはなく、有栖の『もういい』がどれほどまでに興味を無くしたが故の発言かも、桜華は知っている。

 無論、家族も知っているし、玲も知っている。この場でそれを知らないのは、玲を覗いた阿賀一家のみだ。


「お母さん、お茶の染みってすぐ取れるかな」

「すぐ手入れに出せば大丈夫だとは思うけど…」

「良かった、おばあちゃんが買ってくれた帯にはついてなさそう」


 有栖が心配をしていたのは、自分のために今日の着物を選んでくれた、祖母のこと。

 もう裕翔には目もくれず、有栖が持ってきていた荷物を持ち、文佳と廉也に深く頭を下げた。


「ごめんなさい、おじさま、おばさま。玲とうちの兄の婚約の方を、どうぞ進めてください。私は帰ります」

「有栖ちゃん、ごめんなさい!」

「有栖ちゃん、うちのバカ息子が本当にすまない!いつか時間を変えて」

「いいえ、いらないです」


 廉也の言葉を遮るように拒否をした有栖は、もうどうでもいいと言わんばかりに、微笑んだ。


「もう、いいんです」

「有栖ちゃん…」


 それまで浮かべていた微笑みではなく、まるで人形のように綺麗な、貼り付けたような微笑みが、玲以外を突き放しにかかっているのは容易に理解出来た。

 有栖にお茶をぶちまけた本人の裕翔以外は、そうなってしまって仕方ない、と理解していたのだが、裕翔だけは理解していなかったのだ。むしろ、どうして有栖がここまで自分に対して興味をあっという間に無くしてしまえるのか、不思議で仕方なかった。


「おい、君」


 呼びかけても、有栖は見向きもしない。


「おい!」

「てめぇ、裕翔!」


 裕翔が遠慮なく有栖の肩を掴み、振り向かせようと手を伸ばしたところを、樟葉が払い除けようとしたのだが、裕翔の手は有栖に届くことなく特大の静電気が走るように、パン!と大きな破裂音のようなものが聞こえ、裕翔は呆然と自分の手を眺めていた。


「小童、そやつを姫様に近付けるでないぞ」

「分かっている」


 どうやら、桜華が有栖に対して何かしらの護りの術を展開したらしい。ひりひりと痛む指先を見てから、裕翔は有栖に向かって声をかける。


「さっきは悪かった。だがな、こちらの立場も考えてみてくれないか。いいか、君は」

「出来損ない、と言いたいのでしょうか」


 裕翔の言葉すら遮り、有栖は淡々と問う。


「だから申しました。婚約なぞ、解消してくれと」


 振り返った有栖の目は、どこまでも冷たく迫力のあるもので、思わず玲や樟葉ですら声を失うほどの虚無すら見えるほどだった。


「……っ」

「玲、うちのお兄ちゃんと仲良くね」


 しかし、玲に話しかけるその瞬間はとてもふわりと、綺麗に微笑んだ有栖を見て、裕翔の記憶に一瞬初恋の幼い子が過ぎった。


「(え……?)」


『またね、ゆうとくん!』


 そう言って走っていった、小さなあの子。

 どうして、有栖と姿が被ってしまうのか。あの子の特徴は確かに有栖と似ている部分もあるかもしれないが、それでも有栖ではないと決めつけているから、裕翔は一人で混乱してしまっていた。

 そんな裕翔に目もくれず、有栖は文佳に改めて深く腰をおり、お辞儀をした。


「あとは、皆様でどうぞよろしくお願いいたします」


 有栖の強固な意志を感じ取り、文佳も深々と頭を下げる。


「こちらのバカ息子のせいで、有栖ちゃんに嫌な思いをさせてしまって…本当にごめんなさい」

「いいんです、ほんとに、もう」


 それじゃ、と挨拶をしてから有栖はすたすたと歩いていく。

 部屋から出ていき、ぱたん、と扉が閉まってから裕翔の胸ぐらを樟葉が思い切り掴みあげた。


「てめぇ…っ!」

「お、おい、樟葉、やめ…っ」

「樟葉さん、構いません。兄なんかどうなったっていい、一度痛い目を見るべきなんだわ」

「おい、玲まで!」

「当たり前でしょう」


 ぴしゃりと母である文佳にまで言われ、ぐっと裕翔は言葉につまる。

 はぁ、とため息をついた文佳は、來未に対しても頭を下げた。


「ごめんなさい…本当に、裕翔は馬鹿でどうしようもなくて…」

「うーん……でも、困ったわねぇ」


 のほほんと言う來未に、え?と文佳は問いかけた。


「ああなった有栖はね、きっとそう簡単に心なんか開かないわ。だから一旦婚約は解消しましょうか。だって…」


 くるりと裕翔を振り向いた來未の目が、先程の有栖と同じで、樟葉も玲も震え上がった。


「出来損ないを、あなたになんか、あげるわけにはいかないわ。あの子はうちの、大切な宝物なんだから」


 有栖にとって、何より味方になってくれている存在の母、來未。

 怒りの大きさは有栖よりも下手をすれば大きく、そしてとてつもないものだということに、今更ながら裕翔は気がついたのだった。

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