最終章/蒼き奔流 第7話/礫砂漠の大奔流

   一


 アサドはゆっくりと、階段を降りてくる。

 ちょうど六層目の、三本の階段が一つに合流する地点には、小屋のような建物が建っている。

 四角錐の頂を切り取ったような、そのドームの外壁を、アサドは登り始めた。

 陰に階段でもあるのか、スルスルと外壁を登ったアサドは、ドームの頂きに立った。

 そして、空を見上げる。

 つられるように、ラビンも空を見る


 いつ現れたのか、下級の妖魔である飛竜の群れが、上空を舞っている。

 ラビンも知らぬ、アル・シャルク本国からの増援か?

 翼を持つ蜥蜴に似た姿の飛竜の中の、他を圧して巨大な一頭の背に、人影らしきものがチラリと見えた。

 だが、太陽に重なり判然としない。

 それをじっと見つめているアサドの周りに一瞬、

 巨大な殺気が膨れ上がるのが、

 地上のラビン達にすら感じ取れた。


 だが不意にその殺気は鎮まり、アサドは視線を下に向けた。

「聞け、アル・シャルクの兵達よ!」

 アサドの声が、蒼天に朗々と響き渡る。

「今こそ雌雄を決せん! 我が兵は最後の一人となるまで、汝らに血刀を振るうであろう!」

 アサドと兵たちは、あくまでも戦うというのか!

 アル・シャルクの兵達に、怒りにも似た殺意が巻起こった。

「たかだか敗残兵の寄せ集めに、何ができる!」


 誰かがそう叫んだのを引き金に、アル・シャルク兵達が雪崩を打って聖塔に突撃し始めた。

 砂漠を吹き渡る風に、静かにそれを見下ろしているアサドの白い長衣の裾がひるがえる。

「い…いかん! 奴の挑発に乗るなっ!」

 兵達の耳にはラビンの制止も、届かなかった。

 例えあの奇妙な聖塔に拠った所で、今やアル・シャルク軍の十分の一以下に減ったアサド達に、何ができるというのか。

 勝利の慢心が、アル・シャルク軍の鉄壁の統率に乱れを生じさせた。

 一直線に、聖塔の階段に向かって兵達が突進する。



   二


 戦車四台が横並びに進めるほどの幅がある階段に、蜜に群がる蟻のように、ワラワラと黒衣の兵達が殺到する。

「チッ!」

 ラビンは思わず舌打ちした。

 こうなっては、下手に抑制しては士気を損なう。

 むしろ、この勢いを殺さぬように指揮するのが得策。

 躊躇している暇はない。


「全軍、正面からアサドを攻撃せよ! 兵力を無駄に分散させるな!」

 アサドが罠を張っていたとしても、それが何かが分からぬ以上、対策はない。

 ならば、正面から力押しに押した方が、かえって危険が少ない…

 ラビンの選択は、決して間違っていなかった。

 だが……


「なんだ? この音は……」

 ラビンの耳に、微かな振動音が聞こえてきた。

 虫の羽音のようなそれは、徐々に大きさを増している。

 アサドの足元から!

「気をつけろ! 奴は何かを狙ってい……」

 そう言いかけた瞬間……

 激流が踊った。


 アサドの足元の階段を突き破って、大量の水が噴き出してきたのだ。

 巨大な水竜にも似た大量の水は、奔流となって聖塔の階段を駆け下って行く。

「う…オオオオオ〰〰〰〰ッ!」

 一直線に聖塔の階段を駆け上ってきたアル・シャルク軍は、正面から奔流の直撃を受けた。

 聖塔の表面を覆った白い焼き煉瓦さえも引き剥がし、

 流れ落ちながら、

 水は兵達を呑み込んだ──────



   三


 激流が収まるのに、四半刻を要した。

 圧倒的な水流に流されたアル・シャルク兵は、気を失い手足を折り、泥の中に這いつくばっていた。

「……全ての武器を捨て、我が軍門に下れ」

 ラビンを見下ろしたアサドが、静かに言った。

 屈辱と怒りに震えた眼で、ラビンはアサドを睨み付ける。

「断る! 俘囚の辱めを受けるぐらいならば死を選ぶ、それがアル・シャルクの武人の誇りだ!」

「では、これ以上の戦いは無意味。我らは追撃はせぬ、静かに軍をまとめ、故国へ帰られよ」

「その申し出も断る!」

 ラビンの声には断固とした意志が込められている。


 しかし、勝敗は既に明らかであった。

 圧倒的戦力で城塞都市ウルクルを包囲していたアル・シャルク北方方面軍は、もはや見る影もない。

 兵士達が心を寄せたカジム将軍も、今はいない。

 妖魔ハイヤットも既にない。

 泥海と化した聖搭の下では、突然の激流に押し流された兵の多くが、泥の中で呻吟し、アサドの周りでは赤獅団の傭兵達が矢をつがえ、ラビン達に狙いを定めている。

 動けばたれる。


 残った兵だけで、態勢を立て直すことは不可能。

 彼の意地だけでは、もう戦闘の続行は不可能。

 カジム将軍の復讐も、今の惨状では不可能。

「ラビン殿、指揮を……!」

 いつの間にか、ラビンの横に参謀が来ていた。

 右肩を脱臼したのか、ダラリとぶら下がった腕を、左手で必死抱え込むようにして持ち上げている。

 激痛に耐えている、その顔は蒼白であった。


「…俺が…命令を下さねば、兵ら最後の一人まで突撃し続けるというか?」

 参謀はこくりと頷いた。

 彼の言葉に嘘はなかった。

 傷つきながらも、それでもカジム将軍の遺徳を偲ぶ者達は、必死に剣を取り戦おうとしていた。

 誰もが足下もおぼつかないくせに、眼光だけはギラギラと輝き、アサドを凝視している。

 死の瞬間まで、彼らの歩みは止まるまい。

 止められるのは、自分しかいない。

「……全軍……撤退!」



   四


 総司令官たるラビンの声が発せられたその時───

 無敵を誇ったアル・シャルク北方方面軍は、総崩れとなった。

 緊張の糸が切れ、がっくりと膝を着く兵、兵、兵、兵、兵、兵…………

 だが撤退する北方方面軍にあって、ラビン准将は撤退の号令を下した地点から一歩も動こうとはしなかった。

 いや、ラビンだけではない。

 泥流と化した大地に足を掴まれながらも、ゆっくりと聖塔に向かって歩を進める者が、少なからずいた。


 その目に宿るのはただ、殺気、のみ。

 狙うはただ、アサドの首ひとつ。

 長い戦いに疲労困憊し、今また激流に翻弄ほんろうされた者に、アサドを倒す体力など残されているはずも無い。

 しかも聖塔に歩を進めるは、すべて老兵であった。

 それは亡きカジム将軍と長年苦楽を共にし、若き司令官と共に死ぬ覚悟の者達であった。

 ここでアサドの首級を挙げて、故国アル・シャルクに帰ろうとは皆、さらさら考えていない。

 死に場所が欲しいのだ。


 敵に背を見せなかったという、武人としての最後のきょうが。

 ラビンが武骨な顔にフッと笑みを浮かべ、父の形見の彎刀を抜いた。

 荒い息を吐きながら聖塔の遥か上、階段の中程に立つアサドに向かって歩きだす。

 ラビンの歩にあわせるように、アサドも再び階段を降り始めた。

 彼の後ろに、棒の様なものを掲げ持つサウド副官が続く。

 そして───

 階段の中程で、彼らは再び相まみえた。

 アサドは静かな声で、ラビンに語りかけた。


「これ以上の流血は無意味……そう思わぬか?」

「思わん!」

 即答した。間髪入れずに。

 握りしめたカジム将軍の形見の剣をアサドに向け、叩きつけるようにラビンが答える。

 例え兵は撤退させても、自分一人だけはアサドに一矢報いて死ぬ。

 それが亡き父に、故国アル・シャルクに対する、自分なりのけじめだ。

「では、問おう。汝らは神官シダットの私兵マムルークなりや?」

「否! 我らは誇り高きアル・シャルクの兵なり。シダットごときの私兵にあらず!」

「その言葉を待っていた。では、カジム将軍の最後の言葉を覚えているか?」

「無論だ! 『常夜照らす月の元に馳せよ』……それが貴様に謀殺された将軍の言葉だ!」

「では、その言葉に従え」

「なにィ?」



■最終章/蒼き奔流 第7話/礫砂漠の大奔流/終■

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