第7章/紅き胡蝶 第4話/人面蛇の尾尖撃

   一


 ファラシャトが跳んだ瞬間、足の下の煉瓦が崩れ、体勢が乱れた。

「う……くぅう!」

 なんとか剣の柄を掴んだものの、城壁に深々と刺さった剣は、ファラシャトの力では引き抜けはしなかった。

 落下の加速度で、剣の柄からその細い手が引き剥がされ、

 彼女は大きく反転し、頭から地面に向かって墜落した。

「きゃあああああ……」

 ドサリッ……と鈍い音を発して、その身体は地面に叩きつけられた。


「ファラシャトっ!」

莫迦ばかな真似を。そんな剣などで、何が変わると?」

 ハイヤットが冷酷に言い放った瞬間、その右眼に激痛が走った。

 妖魔の右目にアサドのジャンビアが、深々と刺さっている。

「硬い鱗に護られた妖魔でも、眼だけは柔らかいようだな」

「き…きさまぁ!」 

 たとえ徒手空拳であっても、最後まで諦めずに戦い抜く、アサドの声に眼に激しい怒りと決意がほとばしる。 


「どうやら、おまえに最上の恐怖を期待するのは無理のようだな。よかろう、殺してやる!」 

 人面蛇の髪がいっそう赤さを増してゆく。 

 その時、か細い声がアサドと人面蛇の耳に届いた。

「ア…サド…」

「ファラシャト! 無事だったのか?」

「何…とか…ね」 

 だが、その声は苦しげだった。折れた肋骨が肺に突き刺さっているのか、呼吸すら苦しそうだ。

 それでも彼女はヨロヨロと立ち上がると、再びアサドの長剣に向かって崩れかけた壁面をよじ登ろうとする。

「やめろ、ファラシャト! それ以上動くな」


 アサドの制止を聞くまでもなく、ファラシャトに再び壁をよじ登る力など、既にない。やっと掴んだ煉瓦は、しかし彼女の体重を支えきれずに壁から剥がれて落ちた。同様にファラシャトも倒れる。

「ククク、バカな女だ」  

 人面蛇が冷笑する。だが、その冷笑が、次の瞬間凍り付いた。

 ファラシャトの手で剥離した煉瓦の、上の煉瓦が支えを失って二枚剥離した。さらに、その上の煉瓦が三枚剥離する。その上も、その上も……。

 逃げる力も無く、地面に身を屈めるファラシャトの上に、鈍い音を立てて煉瓦が降りそそぐ。



   二


 扇状に城壁の煉瓦は剥離し続ける。

 そして…アサドの長剣が突き刺さった場所まで煉瓦が剥離した瞬間───

 剣は自らの重さに押されるように、壁からポロリと抜け落ちた。

 ザッ…

 落ちた長剣は、身を屈めたファラシャトの目の前に、突き刺さった。


 埃まみれれになったファラシャトは一瞬、

 信じられない…と言うように剣を見つめ、

 ヨロヨロと立ち上がると、

 剣の柄に手を懸け引き抜く。

「アサド……受け取ってっ!」

 ファラシャトが長剣を投げようとした瞬間、彼女に向かって一直線に激しい風が奔り、ビシャッと何かを叩きつけるような鈍い音がした。


 人面蛇ハイヤットの尻尾が、剣を握りしめたファラシャトの左胸を深々と貫通していた。

「あ……ぐぅ……」

「ファラシャトーッ!」

「伝わって来るぞ、貴女の恐怖、絶望……なんと甘美な!」

「きさまぁ……」

 怒りに燃えるアサドの眼も構わず、人面蛇は身体を小刻みに震わして、ファラシャトの苦しみと恐怖を味わう歓喜に酔い痴れている。


 ひとしきり震えた後、人面蛇の尻尾がゆっくりとファラシャトの胸から引き抜かれた。

 胸にぽっかりと開いた黒い穴から、彼女の口から、真紅の血が吹き出す。

「はぁ、あぁああぐふ……」

 そのまま、支えを失って前のめりに倒れかけたファラシャトは───

 だが必死で踏みとどまると、最後の力を振り絞った。

 震える手に渾身の力を込めて剣を持ち上げ、投げる。 

 何処にこんな力が残っていたのか。

 ファラシャトの手から放たれた長剣は、まるで主の元に吸い寄せられるように、一直線にアサドの元へ飛んできた。



   三


「無駄なあがきを!」

 再び硬化した人面蛇の尻尾が、一直線にアサドの心臓に向かって伸びる。

 銀光一閃

 だが、その鋭利な先端は、アサドの心臓を貫かなかった。

「何だとぉっ?」

 尻尾の先端はアサドの左手の掌を貫き、心臓ではなく虚空に達していた。


 貫かれた掌に激痛など感じていないように、アサドは左手を握りしめ尻尾の動きを制した。

 その右手は、長剣のつかをしっかりと握っている。

「おおおっ!」

 激しい気合いと共に、右脚で大地を蹴り、その反動をそのまま左足で受けとめるかのように、アサドは踏み込んだ。

 瞬間、長剣の切っ先は優美な弧を描いた!

「死ねええええッッ!」

 長剣は減速することなく妖魔ハイヤットの首筋に突き刺ささった。

 剣は左の肩口から切り込まれ、右の脇腹に向かって鋭角な軌道を描き、人面蛇上半身を両断───

 するはずだった。だが……


「な…なにいッ!」

 剣はその刀身の幅分だけ、ハイヤットの肩に食い込んで、止まった。

 ハイヤットがニタリと笑いながら、アサドを見下ろしている。 

 渾身の一撃も、この妖魔には少しもダメージを与えてはいなかったのだ。

 ハイヤットのわずかに歪んだ口元が、圧倒的な力量の差を示していた。

 狼狽するアサドの一瞬の隙を見逃すはずもなく、ハイヤットの尻尾の強烈な一撃が、背後から襲う。

「ふ、ぬぅ!」

 耳の横を強打され、脳震盪を起こしたアサドは、そのまま地面に叩きつけられた。


 妖魔の首筋からは、一滴の血さえ流れていない。

「貧弱だ、全くもって貧弱だ。人間とは、かくも貧弱な力しか持ちえぬのか? 憐れよのぉ、愚かよのぉ」

 侮蔑の言葉を、妖魔はつぶやいた。

「ククク、この程度の傷で、わたくしが死ぬとでも…………ん?」

 剣を引き抜こうとしたハイヤットの右手が、ピタリと止まる。

 人面蛇の傷口から、ネバネバした黒い液体がジンワリと、這い出してきたではないか!

「な…んだ? ……これはっ!?」

 不審げなハイヤットの表情が、次第に痛みに歪んでゆく。



   四


 粘着質の液体が、今は黒い霧のようになって、ジワジワとくびから沸き上がる。

 と同時に、肩口のごく浅い位置にあったはずの剣が、熱した短剣を醍醐チーズの上に置いた時のように、妖魔の身体の中心に向かってユルユルと下がり始めた。

「あひ?」

 ハイヤットの素っ頓狂な声に揺り動かされたかのように、アサドが上体をゆっくりと起こした。

「な…ん…だ? 妖魔が苦しんでいる?」


 まだ焦点が合わぬ目を必至にすがめて──

 アサドは目の前で起きつつある事態を、懸命に把握しようと試みた。

「剣に…吸い込まれる……私の妖力がぁ! 莫迦な…たかが古刀に何故だ……あ、あ、あ、ぐわああああッッ!」

 呆然と見つめるアサドの前で、妖魔は激しくのたうちまわった。それまでアサドの三倍はあったはずの体高が、どんどん縮んでいく。

「死ぬ……のか…わたくしは? たかが人間に…この…わたくしが敗北して!」

 ほとんど人間と同じ体格になったハイヤットは、それでも頚の剣を、渾身の力で引き抜こうともがく。それに応えるように少しずつ、アサドの剣は黒い液体に濡れた刀身を現し始めた。


「させるかっ!」

 アサドはハイヤットの背後から飛びつくと、両足を妖魔の胴体に絡め、ハイヤットの手の上から剣の把を握りしめた。

 引き抜こうとするハイヤットの力に対して、全力で剣を妖魔の身体に押し戻そうとした。

「死ねええ!」

「く…く…く…かあああ……!」


 アサドの動きに一瞬抵抗したハイヤットだったが、ガクンと一気に剣を身体に押し込まれた。その勢いで、刀身を掴んでいたハイヤットの指が数本飛ぶ。

「ぐぎゃああああああ!」

 妖魔ハイヤットは最後の力を振り絞って、アサドに向かって自分の尻尾を突き刺そうとした。

「大将危ない!」

 ミアトの絶叫が走った。



■第7章/紅き胡蝶 第4話/人面蛇の尾尖撃/終■

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