第7章/紅き胡蝶 第3話/胡蝶乱舞の饗宴

   一


 アサドの立つ地面が、波打つように揺れている。

 倒壊しかけた城壁からボロボロと日干し煉瓦が落下する。

 この激しい揺れでは、城壁はあといくらも保てないだろう。

 日干し煉瓦が、巨大な雨粒のように兵たちの上に降りそそぐ。

 逃れようにも、立っていることさえ難しい程の揺れに足をとられ、兵士は頭を抱えてへたり込むしかない。

 あちこちで絶望的な悲鳴が上がった。


「ファラシャト殿、危ないっ!」

 落下する煉瓦からファラシャトを庇ったヴィリヤー軍師が、頭に直撃を受けて昏倒した。

「大丈夫かヴィリヤー!」

 思わず軍師と付けずに呼んだファラシャトは、なんとか軍師を助け起こそうとするが。

 己の身体を真っ直ぐに保つことさえままならない。

 城壁全体がじょじょに、傾きだした

 これがアル・シャルク軍の、最初から狙いだったのか?

 三の矢も用意していたのだ。


 最初の一揺れでバランスを崩し、転びかけたアサドは、それでもグッと踏ん張って体勢を保つと、走った。

「キサマの思い通りに……させるかぁっ!」

 激しい揺れの中、低い体勢で何とかバランスを取りながら、人面蛇の妖魔ハイヤットまで、一気に疾走する。

 雷光の速さで必殺の突きを繰り出す。

 狙い違わず切っ先は喉へ!


 ……だが、

「なにぃ?」

 ハイヤットの喉笛を狙って繰り出されたアサドの一撃は、妖魔の尻尾によって点で受けとめられていた。

 払ったのではない。

 剣の軌道上に垂直に尻尾を繰り出し、一点で受けとめたのである。

 なんという動きであろうか。

 人面蛇の尻尾の断面は丸い。わずか1ミリでも受ける位置がずれれば、アサドの長剣は妖魔の尻尾を弾いてしまう。



   二


「貴公の恐怖の味は、父上よりも何倍も……いや何十倍も、美味そうでございますな」

「ぬかせ!」

 妖魔は──特に上級の妖魔は、人間の恐怖を食らう。

 その死の瞬間、湧き上がる恐怖が彼らにとって、最上の甘露に等しいのである。

「せいぜい楽しませていただきましょうぞ」

 妖魔の慇懃な言葉と共に、突然地震が収まった。


「何の真似だ? あのまま揺らし続ければ城壁の倒壊は必定。それを……」

「それでは、つまらぬではありませんか」

 人面蛇がサラリと言った。

「我々は、人間の恐怖を糧として生きております。あなたのような剛胆な人間が、魂の底から絞り出した恐怖こそが、最上の美味」

「フン、意外に苦くて喰えんかもしれん……ぞッ!」

 アサドの剣が一気に振り下ろされた。


「フフフフフ……」

 突き、振り下ろし、薙ぎ払い、切り上げる。 

 だが、アサドの渾身の斬撃は、青黒い蛇体の柔らかい動きに、ことごとく払われてしまう。

「おやおや、どうなさいましたかな、ほらっ。そんなことでは、父上の復讐など夢のまた夢でございますよ」

「たっ……大将危ないっ!」

 ミアトの甲高い叫び声が走った。

 何度目かの袈裟切りを受けとめた瞬間、それまで鋼の硬度でピンと伸びていた妖魔の尻尾の先端が、スルスルとアサドの剣から腕に巻き付いたのだ。まるで、突然本来の柔軟性を取り戻したかのように。


 次の瞬間───

 アサドの右腕の動きを制した尻尾はその先端を再び硬化させると、肩の付け根を深々と刺し貫いた。

「ふふふ、何ができる? ただの人間のおまえに、何ができるつもりだ。わたくしを最下級の妖魔の屍肉喰らいどもと、同じと思うなよ」

 肩を貫かれ、絡みついた尻尾の強力な締め付けに、アサドの右腕がみるみる色を失ってゆく。

 手首を締めつけられ、指が剣の柄からわずかに浮き上がって離れた瞬間、ハイヤットの尻尾が長剣を搦め取り跳ね上げた。



   三


 跳ね上げられた長剣は、ゆっくりと弧を描いて中空を飛び、崩れかけた城壁の中腹に深々と突き刺さった。

 同時にハイヤットはアサドの戒めを解き、地面に叩きつける。

 土埃を上げて転がりながら、アサドは受け身の体勢をとって素早く身体を建て直した。

 頭の被り布の端を素早く引き裂くと、肩の付け根に軽く巻いて止血した。

 それを見て、赤獅団の傭兵達が、それぞれの武器を引っさげ加勢しようと、走り寄ってきた。

「手を出すな! こいつは俺の獲物だっ!」


 アサドの鋭い声が赤獅団の足を止めた。 

 彼らの背後から、城壁に押し寄せるアル・シャルク軍のときの声が轟いた。

「アサド殿に気をとられるな。総員、応戦せよ!」

 サウド副官の指示に、団員はアサドに心を残しながらも、素早く城壁に取って返す。

「チクショウ! この不細工なデカ蛇めっ!」

 一人残ったミアトが、その小さな胸を膨らませ、ハイヤットに向かって火炎を吐こうとした瞬間、

境界に立つ者ニームの小童めが、そんなものがわたくしに通じると思うのか?」


 ハイヤットの眼がギロリとミアトに向けられ、その尻尾が唸りをあげて持ち上げられたのを見て、アサド素早くミアトと妖魔の間に割って入った。

「ミアト、お前も行け! 行って、サウドを助けろっ」

「…わ…わかった!」

 有無を言わせぬアサドの声がミアトを押しやった。

 走り去る小さな後ろ姿を隠すように立ちはだかったアサドは、ハイヤットを見据える。

「お前の相手は、俺だ」

 彼らの背後で突入してきたアル・シャルク軍とウルクル軍との、壮絶な戦闘が始まっていた。


「ほう、この状況でも貴公には、微塵も恐怖というものが浮かんではいない。いやはや、大した胆力だ」

 半ばあざけるように、半ば感心するように、ハイヤットがつぶやく。 

 アサドは腰のジャンビアを、左手で抜くと構えた。

 この短剣で、妖魔に致命傷を与えられるはずが無い。

 だが今の彼には、これ以外の選択肢はなかった。

 母の形見の、王妃の宝剣。

「そんな飾り物の短剣で、何がお出来になるのかな? まぁ、私はあなたの苦悶の様を見られるのが嬉しいが…。では、ゆっくりと楽しませて頂きましょうか、殿下」



   四


 ハイヤットが蛇体をうねらせながら、じらすようにアサドの周りを回りだした。 

「端麗な顔だ。その顔に喰らいついたら、あなたの恐怖を味わえますかな?」

 回りながらゆっくりとアサドに近付く。

 口角がパックリ割れ、先が割れたしたがゾロリと口からはみ出した。

 まさに蛇であった。

 まるで彼の反応を楽しむかのように。


 不意にアサドの碧眼が大きく見開かれ、その口から鋭い声が漏れた

「……や…やめろ!」

「フハハハ、やっと人間らしい感情が出てきましたなぁ。それを待っていた……」

 ハイヤットは口の両端を大きく吊り上げて、顔が半分に割れる程の笑みを浮かべた。

 だが、アサドの言葉は恐怖からの命乞いではなく。

 ハイヤットのはるか後方、ファラシャトに向かって発せられたものだった。

 彼女は今にも崩れそうな城壁の上によじ登り、壁に突き刺さったアサドの長剣にジリジリと近づこうとしていた

 一歩踏み出すごとに煉瓦が剥がれ、崩れ落ちる。ファラシャトは危うい足場を支えに必死に手を伸ばす。

 ───届かない


 ようやく昏倒から覚めたヴィリヤーも、アサドと同じものを見た。

 戸惑っていたファラシャトが、キュッと唇を結んだ。

 覚悟を決めた顔。

「ファラシャト殿ォ!」

「やめろおっっっ!」

 二人が絶叫した瞬間、ファラシャトは長剣に向かって、跳んだ。


 これしか、方法はなかった。

 落下しながら、一瞬で剣を引き抜く。

 失敗したら二度目はない。

 剥離した煉瓦や礎石が散乱する地面に叩きつけられれば、軽くて両足の複雑骨折。

 いや、首の骨を折って即死する可能性さえあるのだ。

 だが、武器が無ければ、アサドは人面蛇に殺されてしまう!

「とれる! 絶対にっ!」

 己を叱咤するファラシャトの叫び声は、しかし───悲鳴に変わった。



■第7章/紅き胡蝶 第3話/胡蝶乱舞の饗宴/終■

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