第7章/紅き胡蝶 第2話/投入されし妖魔


 ───しかし、そのまま一気に倒壊するかに見えた城壁は、ピタリと動きを止めた。

「と…止まった……?」

「大丈…夫なのか?」

 兵達の眼が、いっせいにアサドに注がれた。

 誰もが彼の言葉を待っている。

「…土台がしっかりしていたのが幸いだったな。これ以上は倒れまい」

 ウルクルが安堵の声をあげたと同時に、アル・シャルク軍から失望の溜息が上がった。


 ラビン新司令官も同じだった。

 眉間に皺を寄せ、胸の中の熱い塊を搾り出すように息を吐く。

 過大な戦果を期待するのは、戦場では禁物であることは彼とて十分に承知していた。

「予測」と「願望」は明確に線引きされなければ、勝利は遠い。

 勝軍とは、戦う前に勝利を確信してから戦う。

 敗軍とは戦って後に勝利を求める。

 国と国の戦いは遊びではない。事が上手く運べばこうなる…という予測の上での作戦計画は厳禁である。それはただの願望でしかない。


 最悪でもこうなる…という冷徹な認識の上に立った作戦でなければ、兵を投入してはいけない。

 しかし、それでも。

 ラビン新司令官の落胆の表情を読んだ老幕僚の一人が、すかさず若い指揮官に話しかけた。

「司令官殿、期待どおりに倒壊はしませんでしたが、城壁は大破しております。ここは一気に突入すれば……」

「いや、それは無謀だ。崩れかけた城壁に兵が飛び乗れば、こちらの損失もまぬがれん。むしろ、こちらの予想以上に壁は崩れたと言えるがな」

 ラビンの冷静な声に老将は戸惑った。では何に、この若い司令官は落胆したというのか?

「しかし、そうなると今後の作戦展開は……」

「大丈夫だ。手は打ってある」

 ラビンは苦い声で言った。


 彼の顔に浮かんだ落胆は、城壁が倒壊しなかったことに対するものではなかったのだ。

「あまり、使いたくはなかった手段だが、仕方あるまい」

 話しが良く飲み込めない幕僚を後目に、ラビンは右手を挙げた。

「全軍後退! 散開して片膝と両手を地面に着けろ! いいか、何が起こっても慌てるなっ!」

 ラビンの指示に、兵達は戸惑いながらもいっせいに後退した。ラビン自身も馬から降り轡を抑える。

「司令官、いったい何を?」

 その問いに答えず、ラビンはウルクルの城壁を凝視していた。

「気をつけろ、そろそろ来るぞ……!」



   二


 予期せぬアル・シャルク軍の動きに、アサドは困惑した。

 彼らの行動の意図が、推測できなかった。

「奴等、何をしているんだ……?」

 ファラシャトも困惑した。

 ウルクルの城壁が崩れたこの好機に、何故わざわざ兵を引くのか?

 一気呵成に攻め上ることが、兵法の常道である。

 考えられることは……


「妖魔…のお出ましか」

 一番予想したくないことを、アサドはさらりと言った。

 ファラシャトの眉間にシワが寄る。

「…どんな?」

「わからん。地・水・火・風──どの族の妖魔が来るか」

 妖魔には四種類の属性に分かれるとされる。


 地──蜘蛛や蛇体や百足ムカデに似たの妖魔

 水──魚類や亀や竜、ときに人魚の妖魔

 火──火炎を吐き獅子や狼に似た妖魔

 風──昆虫や鳥の体で空を飛ぶ妖魔


 そこまでは推測できる。

 だが、そこから先が読めないのだ。

僭越せんえつながら、わたくしめがお教えいたしましょうかな?」

 突然、二人のすぐ近くで声がした。

 思うよりも速く、身構えるアサドとファラシャト。

 ふたりとも、武人であった。

 だが、妖魔の姿は見えない。



   三


「何処を見ています、此処ここですよ、

 重くしゃがれた声は、まるで地の底から響いて来るような、重くくぐもった声。

 だが、依然として声の主の姿は見えない。

「いかんッ、ファラシャト飛べッ!」

 何かに気づいたアサドが、ファラシャトを突き飛ばすのと──

 地面から何か黒いものが飛び出して来るのが同時だった。

 カジム将軍を刺し貫いた、あの黒く鋭利な円錐形の巨大な爪!

「グフ、クククゥ~最初からこうしておれば、無駄に時を浪費しなくて済んだものを」


 その巨大な爪の下から、大地を割って黒い人影が現れた。

 土にまみれた上半身は人間。だが、腰から下は……。

 青白い裸の上半身が、アサドの頭を越える高さまでゆっくりと上がってゆく。

 それを支えているのは、人間の掌ほどの大きさの青黒いウロコにびっしりと覆われた、巨大な蛇体であった。

 その異様な肢体を白日の下に晒し、妖魔は瞬きのできない眼でアサドを見下ろしている。

 それは人面蛇ハイヤット


「お初にお目にかかる」

「いいや…二度目だ」

 呟いたアサドの眼に、激しい怒り渦巻き、全身から殺気がほとばしった。

 バルート将軍を惨殺した時よりはるかに凶暴な、あたりの空気さえ切り裂き、焼き尽くすような殺気が!

「これはこれは……覚えていてくだされたとは、嬉しゅうございますよ。あれは八年前になりますかな。あの時は第一王子に名乗ることができなくて、残念でございましたよ。わたくしはハイヤットと申しまする」


 まるで懐かしい知り人に語りかけるかのように、柔らかな言葉。

 だがその馬鹿丁寧さが、言葉の裏のあざけりを強調している。

 ウルクル兵たちは突然現れた妖魔への恐怖に縛られ、だれ一人として動けない。

 農民兵たちも、低級な妖魔、屍肉喰いグールならば見たことがある。

 それよりも大きく強いクトルブも、頻度は少なくても、見かけることもある。

 だが、人間の姿をし、人語を話す妖魔は、それら下級の妖魔とは比較にならないぐらい強大だと、皆が知っていた。



   四


 赤獅団の傭兵達も、妖魔がどのような力を持っているのかが判らないため、うかつに動けなかった。

 自分を囲む人間達の恐怖を楽しむように妖魔は周りをゆっくりと見回すと、チロリと舌なめずりをした。

 その髪が次第に赤みを増していく。

「うう、あが…うわあぁ〰〰ッ!」

 不意に、恐怖の極限に達した農民兵が一人、悲鳴を上げながら逃げ出した。


「懐かしい御仁と話しておるというのに、うるさい奴めらが!」

 逃げる兵の背に向かって、何かがはしる。

 背を切り裂かれ、血潮を吹きだしながら倒れた兵の背から、赤い糸のようなものがスルスルと離れた。

 その場の全員が、息を呑んだ。

 それは……人面蛇ハイヤットの髪であった。

「フン、不味いのう。臆病な人間の恐怖ほど薄っぺらで不味いものはない。それにくらべて──」


 ハイヤットはアサドに向き直る。

「貴公の父上、あの方の恐怖は、なかなかの美味でございましたよ」

 その言葉にファラシャトが凍りついた。

 では、この人面蛇が八年前、アル・シャルクの離宮でアサドの父王を襲ったのか?

 あのときの妖魔ならば、アサドの言葉の意味も繋がる。

 アサドは既に、長剣の鞘を払っていた。

「ほう、それは赤獅剣───アティルガン王家の宝剣ですな。百年以上前に、失われたと聞き及びましたが」

「俺が泡影ほうよう山嶺やまから見つけてきた」


 妖魔の身体が八年前の〝あの時〟と同様に、巨大化し始めた。

 トグロを巻いた蛇体の先の、黒光りする鋭利な尻尾は、ピンと天を差し微動だにしない。

「傭兵隊長アサド・アハマル……いやカマル・アル・ザマン殿下、とお呼びした方が儀礼にかないますかな? 伝説の宝剣か偽のなまくら剣か、妖魔の黒鱗うろこで斬れ味を試してみますかな?」

 アサドが地面を蹴って一気に間合いを詰めようとしたとき! 突然、周囲から悲鳴と怒号が湧き上がった。 

「な…?」

 アサドの立つ地面が、波打つようにうねりながら揺れていた。



■第7章/紅き胡蝶 第2話/投入されし妖魔/終■

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