第7章/紅き胡蝶 第1話/城壁での攻防戦
一
アサドは咄嗟に口元を被り布で覆った。
「皆気をつけろ、口に布を巻いて、城壁からできるだけ離れろ。ファラシャト、下がれっ!」
弓を持った射手を残して、城壁の兵の姿がいっせいに消えた。
それを確認してラビンは、ニヤリと笑った。
勝利を確信した男の笑み。
「毒水でもまくとでも思ったか、アサド? ふふふ…グハハハハ…勝った! この戦、俺の勝ちだ!」
ラビン新司令官が手を挙げた。
吐水車と兵達は、ゆっくりと前進していく。
城壁の射手から唸りをあげて次々と矢が射かけられる。
しかし、矢は総て巨大な盾に当たり、兵たちは無傷で前進を続ける。
堀の寸前まで来たところで、やっと吐水車と兵達は歩みを止めた。
獅子の像の横に立った兵が二人、背中の天秤棒を交互に上下させる。
数回繰り返すと、獅子の口から琥珀色の液体が勢いよく吹き出した。
「もっと早く!」
ラビンの声に、二人の兵の動きがさらに早くなる。
それに合わせて獅子の口から吹き出される液体は次第に勢いを増し、今にも堀を越えて城壁に届きそうだ。
兵達が吐水車の背中の天秤棒を、さらに激しく上下させる。
獅子の口から吐き出された茶色の液体は、大人の腕ほどの太さになり、一直線に城壁の最上部に届くと、水とは違ったヌラリとした質感を残して城壁を伝って流れていった。
右から左へ、左から右へ、液体は城壁に満遍なく滴り落ちる。
「この液体の色は……まさか!」
「待て、アサド! 危ない!」
ファラシャトの制止を振り切って、アサドは城壁の縁に身を乗り出すと、茶色の液体に触れた。
ネットリとした感触と、鼻をつく匂い。
「やはり油か!」
アサドは身を翻して城壁の内側に走り降りると、叫んだ。
「すぐに砂を用意しろ! 急いで城壁に振りかけるんだ!」
「アサド、敵の目的がわかったのか?!」
二
「火…だ! やつらの目的は城壁を焼くことだ」
「城壁を焼く?」
「説明している暇はない。おまえも急いで砂を……」
アサドが自分の上着を脱ぎ、足下の砂をかき集めようとしたその瞬間。
背後に巨大な火柱が立った。
「しまった! 遅かったか……」
振り返ったアサドとファラシャトの顔を、炎が赤く照らす。
炎は一瞬にして城壁を走り、瞬く間に全体に広がってゆく。
それはさながら、城壁を呑み込む大蛇のようであった。
炎の熱風に巻き込まれて、射手が絶叫しながら城壁から落ちる。
「よし、もっともっと油を注げぃ! 城壁が真っ赤に焼けるまで燃やして燃やして、燃やしまくるのだ」
ラビンの声に吐水車の横の兵が交代するのと、獅子像の尻尾近くの穴に革袋の中の油が注ぎ込まれるのが同時であった。
天秤棒の漕ぎ手は、さらに速く棒を上下させる。
次々に漕ぎ手は交代し、注がれ続ける油に城壁の炎はますます勢いを増してゆく。
吹き上がる黒い煙であたりの視界が失われた。
しかも、風が城内に向かって吹いていた。
昨日まで恵みの水を送ってくれた風が、今や黒煙と業火をウルクルにもたらしていた。
アサドの指示にしたがって、城壁に砂をかけてなんとか消火しようとする兵達がせき込んで倒れる。
「よし、ウルクルの防御は手薄だ。ナファトゥーンの壺を!」
ラビンの命令に、数十名の兵がいっせいに堀のすぐ近くまで接近してきた。
手には、子供の頭ほどの壺を持っている。
壺は口が皮で閉じられ、くびれた
「そらよッ!」
兵達は手にした縄で、壺を勢いよくグルグルと回し、城壁に向かって次々ぶつけた。
三
城壁に叩きつけられた壺が割れると、一瞬にして業火がわき起こった。
なかには城壁を飛び越え、城内に落下する壺もあった。
城内に落ちた壺も、地面に叩きつけられると、火柱を吹き上げる。
それを見て、持ち場を捨て逃げ出すウルクル兵が出た。
椰子油の引火とは比較にならない、巨大な火柱の出現に、当然の反応である。
「うぎゃぁああ! 火が服に───」
逃げ遅れた兵の絶叫が響く。
それは、ウルクルを囲む砂漠地帯の、南方の荒れ地から吹き出す燃える水。
黒くドロドロとしたそれは、石の油と呼ばれ、鼻をつく悪臭で知られる。
その水から、いくつかの成分が精製される。
その中のひとつ、ナファトゥーンと呼ばれる液体は燃えやすく、一気に燃焼するために敵に与える心理効果が高い。
農民兵に恐怖が伝染し、傭兵部隊の面々が声を枯らせて兵を引き止め消火しようとするが、追いつかない。
外壁を舐めるように焼いていた炎は今や内壁まで達し、城内のナツメヤシの木にも飛び火し始めていた。
「何てこと……」
ファラシャトの口から、呆然とした声が漏れた。
全く予想だにしなかった攻撃に、どう対処すればいいのか、見当もつかない。
その時、
「兵を引け! 敵の作戦がわかるまで、むやみに動くな」
アサドの声が混乱を圧して響いた。
有無を言わせぬ強さを持ったその声に、浮き足立っていた周りの兵たちが一斉に我に返った。
アサドの指示で兵達はそれぞれの分隊ごとに退却を始める。
ヴィリヤー軍師は一声で兵を建て直したアサドのカリスマ性と統率力に、改めて眼を見張った。
戦況は予断を許さない事態へとなっていた。
城内の音に耳を澄ましていたラビン新司令官の口に、笑みが浮かんだ。
「城壁の兵を引いたか? さすがはアサド」
思わず、称賛の言辞がラビンの口からこぼれたが、憎き仇敵に贈るべき言葉ではないことに気づくと、バツが悪そうに、ペッと唾を吐いた。
「ふふん、だが次の一手は予想できまい……水の用意を!」
「はっ!」
部下が間髪入れず呼応した。
二の矢は用意されていたのである。
四
数十人の兵が再び革袋を持って吐水車に駆け寄ると───
それまでの護衛兵と交代して、獅子像に革袋の中の液体を注ぎ込む。
吐水車から今度は、白い筋が弧を描いて城壁に降り注ぐ。
…と、油と水が反応して、いっそう激しい炎が巻き上がった。
「今度は…何を始めたんだ!」
ファラシャトが不安そうにアサドを見る。
「あれは……ただの水だな。何故そんな物を……!」
アルシャルク軍の意図を測りかねて、アサドは狼狽した。
その耳に、異様な音が響いた。
……ピ…ピピシ…ピシピシッ……ビキビキッ!
それは、硬い何かが裂ける音であった。
「うぐゥ……そうか、その手が在ったか!」
敵の真意に気づき、アサドは忌々しげに唇を噛んだ。
この男にしては珍しい、怒りと後悔の発露であった。
苛立ったファラシャトが、答えを促す。
「いったい何が敵の目的なんだ、アサド!?」
「敵は……アル・シャルク軍は城壁自体を、破壊するつもりなのだ!」
「なんだって? この壁を? どうやって?」
「ナファトゥーンで急激に熱せられた城壁の日干し煉瓦は、水で急激に冷やされると、容易に亀裂が入るんだ」
乾燥したこの地の、日干し煉瓦の特性を見抜いた、仕掛けであった。
焼成された焼き煉瓦は熱に強いし、炎による熱での膨張も少ない。
だが、粘土を固めて天日で乾燥させた日干し煉瓦は、そうではない。
ファラシャトの目が泳ぐ。
「まさかッ!? じゃ、じゃあ……」
「城壁は自らの重さで倒壊する!」
アサドの言葉を待っていたかのように、
城壁はゆっくりと、
巨人が倒れるごとく、
外側に向かって
崩れ始めた───
表面の漆喰が剥がれ、日干し煉瓦がバラバラと落ちていく。
「あ…あ…ああ……」
兵達の間から、絶望の声が上がった。
「城壁が崩れる!」
「うわあああっ!」
「て…敵が突入してくるぞぉ」
「ひいいい……」
ウルクル兵の絶望の叫びが、倒壊する城壁の巻き起こす轟音と混じり、戦場に響いた。
■第7章/紅き胡蝶 第1話/城壁での攻防戦/終■
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