第6章/碧き烈母 第7話/黒衣の使者来訪
一
アル・シャルク北方方面軍副司令官──否、今や臨時の総司令官に昇格したラビン准将の行動は、迅速だった。
カジム将軍の死から一刻の後には、早くも陣容を整え決戦の準備に入っていた。
「赦すまじ、アサド・アハマル!」
ラビンの言葉に、兵士達は一斉に応えた。
怒号にも近い声が、陣を包む。
「卑怯者アサドに死を!」
「ウルクルに滅びを!」
誰もが
哭きながら怒りに震えていた。
故郷アル・シャルクを離れて、以来八年。
戦いにつぐ戦いの日々にあって、北方方面軍は単なる軍隊ではなくなっていた。
戦友を超えた兄弟家族…いやそれ以上の存在だった。
常に軍の先頭に立つのはスラフファート・ジルムード将軍こと、カジム将軍であった。
部下のために瀕死の重傷を負ったことも一度や二度ではない。
そこで生き残り、不敗の将軍としての名を、さらに高めた。
北方方面軍の誰もが、将軍を父と慕っていた。
「不敗将軍スラフファート・ジルムードの名にかけて、アル・シャルク北方方面軍は必ず勝利する!」
兵士達の喚声が上がる。
「総攻撃は二刻後、作戦の詳細は追って伝える。準備を怠るな!」
それだけ言うと、ラビンは
やらねばならないことは山積していた。
兵の士気は高いとはいえ、長期戦で兵力は削られ、これ以上の長期戦は難しい。
今や《復讐》の一念だけが、この男をつき動かしていた。
ラビン准将が戻った幕舎の前に、黒衣を纏った小柄な人物が一人、ひっそりと立っていた。
黒い頭巾の下の顔は、何故か明るい日の光の中でも判然としない。
その全身をもやもやとした薄暗い霧が覆っているようだ。
「お待ちしておりました、ラビン准将閣下」
ラビンに緊張が走った。
「おまえは……シダット殿の使いか?」
二
昨日、カジム将軍が話していた「本国からのたった一人の援軍」が到着したのだ。
ラビンは使者を幕舎に招き入れると、人払いを命じた。
その使者の正体が何者であるか知るラビン新司令としても、狭い幕舎で向き合うのは、普段ならもっとも避けたい事であった。
だが今の彼には、使者は待ちかねた援軍である。
「ウルクルとの最終決戦に向かわれますか、副指令殿? して作戦は?」
席に着くや、黒衣の使者はいきなり本題に入った。
「水門横の南の城壁に、全兵力を集中して突破する」
「これは異な事を。南の城壁は城塞都市ウルクルで、最も堅固ではござりませぬか。その作戦では、負けは必至では?」
「ほう、すでにウルクルの城壁を調査済みか、ならば知っていよう? 南の城壁は日干し煉瓦が隙間無く整然と積まれている。先夜の侵入戦では、あまりに煉瓦の積みが綺麗すぎて、指をかけるのも難しかった」
自分の苦い経験を思い出しながら、ラビンは指先の古傷をさすった。
「はて、ますます訳が分かりませぬな。あえて堅牢強固な方から攻めるとは…何か妙案でも?」
「強固な積み、それが重要なのだ」
黒衣の使者の問いに、ラビンはにやりと笑った。
彼の眼の周りは黒いクマに縁取られている。
ラビンが手を叩くと、数人の兵の手によって幕舎の前に何か重い物が運ばれて来る音がした。
黒衣の使者を促してラビンは幕舎を出た。
陣屋の少し先の広場に、それは置いてあった。
「この壺の中身は、数日前に商隊の油商人から大量の油とナファトゥーンを買い付けた」
「ナファトゥーン──南方で採れるという、不思議な水ですな。」
「うむ、それとこれを……」
「ほう……これは吐水車ですな」
ラビンが使者に見せたのは、獅子の彫刻が施された四角い箱だった。
大きさは大人の男の胸ほどもあろうか。獅子の背には天秤棒のように太い棒が渡され、真ん中で獅子の背と繋がっている。
「俺は職人ではないので原理はよくわからんが、水をこの中に入れ遠くに飛ばし火を消すための道具らしい」
「して、この道具を使って、どのようにウルクルを攻めると?」
「うむ、それはな───」
ラビン副指令官…いや、二刻後の戦いより総司令官は、声を潜めて何事かを黒衣の使者に語り始めた。
三
微動だにせずラビン将軍の話を聞いていた使者は、彼の話を聞き終えると大きく頷いた。
「なるほど、さすがは名参謀評判のラビン殿。見事な作戦でございますな。だが、完璧ではない」
「完璧にするために、貴公は本国から遣わされたのであろう?」
「いかにも」
使者の顔が横にパカリと二つに割れ、その両端が吊り上がる。
それは人間の笑み似てはいるが、見る者に不快感しかもたらさない。
「して、貴公の力は何だ? 水か? 火か? 風か?」
黒衣の使者は、ゆっくりと、指を下へと向けた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
同じ頃、アサドは城壁の彼方、遥か遠い東の空を見つめていた。
兵達は、交代で哨戒に当たっている。
アル・シャルク軍が、最後の総攻撃を仕掛けてくるのは今日しかないだろう…そうアサドは考えていた。
アサドの横で、ファラシャトとミアトもアル・シャルク軍の陣地の方向を見つめている。
彼らの背後には、サウド副官とヴィリヤー軍師が控えていた。
夜明けが近い。
太陽は未だ姿を表さないが、大気の湿り気が少しずつ消えてゆき、濃紺の東の空が次第に紫に、赤に、朱に変わってゆく。
「大将!」
ミアトがアサドの袖を引いて、東の地平を指差した。
「来たか」
アサドの声に、兵達の身体がビクンと震える。
地平線の遥か彼方から、砂埃が昇るのが微かに見える。
だが、砂埃は遅々として近付いて来ない。
「随分ゆっくりだね。最初の戦さの時はものすごい速さだったのに、なんでだろ?」
ミアトが眼を細めて言う。
「体力の消耗を極力押さえるために、歩兵の行進速度に合わせているのだろう。つまり…」
サウドの答えをヴィリヤーが継いだ。
「…アル・シャルク軍はこの戦いで雌雄を決するつもりだ…ということですね?」
ゴクリと唾を呑んだファラシャトが、アサドに聞かずもがなの問いを発した。
「先頭は?」
「あいつ以外に誰がいる?」
「確かに…な」
四
北方方面軍の緑の軍旗を背負い、一直線にウルクル城邑に向かって進撃して来たラビンは、城邑からおよそ九百歩の位置で全軍を停止させた。
アサドの弓の有効射程距離の外である。
「吐水車、用意!」
ラビンの声に応じて歩兵の間から巨大な獅子の象が現れた。
戦車を二台繋げた急増の台車に乗せられたそれは、朝日の中で異様なまでに目立った。
台車の脇には兵が二人ずつ左右に控え、さらにその周りを十人ほどの兵が、全身を覆い隠せるほど巨大な丸い盾を持って固めている。
なぜかその兵たち総てが右手に羊一頭分はありそうな革袋を持っていた。
「何だ、あれは? 見たこともない。アサド、知っているか?」
ファラシャトの問いに、アサドが答える。
「あれは…大型の吐水…車か?」
「吐水車? いったい何のために? 吐水車は水を飛ばすための道具だろう」
ファラシャトの疑問をヴィリヤー軍師が引き継いだ。
「水を? そんな物が何の役に立つ。サウド殿、どう思われる?」
この問いには、博学なサウド副官も眉を顰め首をひねった。
歴戦の名軍師も、敵の意図が読めない。
「はて、僅かばかりの水をまいたところで、この城壁が崩れるはずもあるまいに」
困惑していたサウドが、突然何かに気づいたのか、その目がカッと見開かれた。
「……まさか!」
「サウド、何だ?」
「アサド殿、奴等が飛ばすのが……ただの水ではないとしたら?」
その言葉に、アサドは眼下の堀の濁った水を見た。
アル・シャルク軍によって死に追いやられた水を。
「そうか、やつら水に毒を!」
■第6章/碧き烈母 第7話/黒衣の使者来訪/終■
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