第7章/紅き胡蝶 第5話/羽をたたむ胡蝶
一
だが、心臓めがけて伸びた妖魔の尻尾は───
アサドの身体に触れる寸前で、力無く地面に落ちた。
ビクン、ビクン、ビクン……と震えていた妖魔の身体が、
シュワシュワと、河の淀みの泡が弾けるような音がした。
やがて……
一握りの黒い灰を残して、妖魔ハイヤットは死んだ。
「勝った…ぞ。俺は父の敵を……倒したッ!」
荒い息の下から、天に向かってアサドが絶叫した。
「ファラシャト殿!」
ヴィリヤー軍師の悲鳴に、アサドは歓喜の節調から、我に返った。
倒れたファラシャトの傍らにひざまずいたヴィリヤーが、途方に暮れたようにアサドを見上げる。
助けを求める仔犬のように。
だが、アサドに出来ることはない。
その時、
「う…うう……」
アサドとヴィリヤーは、微かなうめき声を聞いた。
「ファラシャト、大丈夫か!?」
横たわるファラシャトを抱き起こした。
しかし壊れた人形のように、その細い首がのけ反り、アサドの手にずしりとした重みがかかる。
「ファラシャト…ファラシャト! しっかりしろ!」
反応がない。
思わず彼女を揺さぶるアサドの力に合わせて、ファラシャトの首が揺れる。
「ア…アサド殿…! そんなに揺すってはダメだ」
「あ…ああ、すまん。取り乱してしまった」
ヴィリヤーの叱責に、アサドの手が止まる。
アサドはファラシャトの頭を片手で支え、片手で頬に触れると、耳元で呼びかけた。
「俺の声が聞こえるか?」
「アサ…ド?」
ゆっくりと、ファラシャトの睫毛が動いた。
澄んだ酸性の湖の様な、青い眼が開く。
二
だがその眼は、不意に眠りを覚まされた子供のように、虚ろだ。
青い眼が、何かを捜しているように虚空を彷徨う。
「良かった……大丈夫だ、すぐ医者を」
アサドの声に、ファラシャトの唇が微かに揺れた。
「どうした…アサド…狼狽しているの? 初めて見た……」
悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「いつも冷静で……憎らしいほど沈着で……いつも……」
言葉を次ごうとして、ふっ…とファラシャトの瞼が重さに耐えかねたように閉じられる。
「ファラシャト!」
今度はさっきよりもノロノロと瞼が開かれる。見ているだけで辛そうだ。
「あな…た…は、まるで…中…天に輝く獅子の…よう……」
天空の獅子座。
それは古来より、水を司ると言われる。
獅子座が天空に輝くときに、この地に雨期が始まり、獅子座が消えるとき、収穫の時を迎える。
それ故、獅子は力の象徴であり、同時に水と豊穣を意味する。
「私と同じ蒼い眼と赤い髪……でも、あなたは伝説の赤い獅子…」
激しくファラシャトがせき込んだ。
彼女の肺にたまった血が、赤黒い固まりとなって吐き出される。
「やめろ、もうしゃべるな。大丈夫だ、死にはしない」
アサドがファラシャトの唇に手を当て、言葉を止めようとした。気管に血塊が入ったら、それだけで確実に死期を早めてしまう。
だが、ファラシャトはアサドの手を弱々しく押しのけると、静かに首を振った。
三
「お願い…もう駄目なの、わかっているの。言わせて……」
苦しい息の下から、ファラシャトは懇願する。わずかに開かれたその瞳から、ひとすじ涙が流れた。
「いつも……あなたには教えられて…ばかりだった…から……今度は…私が教えてあげる」
「やめろ……もういい! これ以上しゃべるな!」
アサドの声が聞こえぬようにファラシャトは言葉を継いだ。
「……あなたを…あなたを王にするのは……アティルガン家の血ではなく…」
無理矢理紡ぐその言葉は、切れ切れになる。
「ただ…勝利だけが、あなたを…正統な…王にする…こ…と…を…」
命を振り絞るように一語一語、ファラシャトの言葉は紡がれていく。
「ファラシャト……」
アサドにはもう、黙って聞くしかなかった。
「…ねぇ……アサ…ド……私の…獅子…王……覚えていて……」
ファラシャトの右手が、何かを掴もうとするように持ち上げられた。
アサドがその手を握りしめる。
自分の手がアサドの手に包まれているのを認めると、埃と血にまみれたファラシャトの小さな顔に、幸福そうな微笑みが浮かぶ。
「アサド、わ…たしは……………………………
………………………………………………
…………………………………………
……………………………………
………………………………
…………………………
……………………
……………
……
…
「ファラシャト?」
だが、最後に何かを伝えようとした唇は、微笑みの形のまま閉じられた。
抱きしめた白い肌は、徐々に熱を失い
自分自身を支える力をなくした身体は
アサドの腕の中でズシリと重みを増す。
ヴィリヤー軍師が呆然と立ち尽くし、ミアトがボロボロと涙を流して、しゃくり上げていた。
そして、アサドは───
彼らの背後では、
赤獅団とウルクルの兵たちが、城壁からアル・シャルク軍を押し戻した歓声だった。
太陽はいつのまにか中天より傾き、ウルクルを囲む砂漠に、午後の乾いた風が吹き始めていた。
四
「き…きさまがファラシャトを殺したのだ! きさまがぁ……ああ…ああああ」
ファラシャトの遺体を抱きしめ、発したウルクル太守の怒号は、しかし、裏がえったまま嗚咽に変わった。
ここはウルクルの王宮。
謁見の間。
「おおお……ファラシャト……。苦しかったろう、苦しかったろうなぁ…ああ我が娘よ」
広間の中央に座り込み、太守は血と土埃に汚れた愛娘の顔を、絹の手巾で拭い接吻しながら、振り絞るように泣き続ける。
広間に居並ぶ家臣達の存在も、今だにアル・シャルク軍との決着が着いていない事も、総て忘れ果てたように、太守は己の悲しみに溺れていた。
王宮の広間の高い天井に太守の泣き声が響く。
余りにもあらわな太守の慟哭に、家臣達が眼を背ける中で、アサドは黙然と太守を見つめている。
その眼帯の奥の碧眼に、いかなる感情が浮かんでいるのか、その場にいる誰にも読み取ることはできなかった。
「アサド! きさまの…任を解く。無能な傭兵どもは即刻ウルクルから追放じゃ!」
太守の憎悪を込めた声が、アサドに叩きつけられた。
飛び出さんばかりに見開かれた眼球は赤く血走り、ファラシャトの遺体を抱く手がブルブルと震えている。
突然の言葉に、左右の重臣達が狼狽した。
今、アサドを解任することは、ウルクルの滅亡を意味している。
赤獅団の奮戦によってようやく、アル・シャルク軍の攻撃をかろうじて撃退できたとは言え、依然として不利な戦力の中、この男無くして一日たりとも守城は難しい…誰もがそれを承知していた。
「太守! 今アサド殿を解任されては、ウルクルは……」
珍しく感情をあらわに詰め寄るヴィリヤーを遮って、太守はさらに大声を上げた。
「黙れ! 黙れ! 黙れ、黙れ、黙れぃ! この男さえおらねば、ファラシャトは死なずにすんだのじゃ!」
「しかし太守……!」
「アサドは敵と内通しておるに違いない。即刻獄に繋ぎ、罪状を吐かせよ!」
太守は、完全に自分を失っていた。
左右に控える衛兵は、太守の狂乱ぶりに戸惑いながらも、オドオドとアサドに近寄る。
その衛兵とアサドの間に、ヴィリヤー軍師が割って入る。
「太守は取り乱しておられるのだ。今のお言葉は無かったのだと思え」
「ヴィリヤー、悔しくはないのか? 儂はお主にファラシャトを
喚きながら太守は、傍らの杯をヴィリヤーに投げつけた。
■第7章/紅き胡蝶 第5話/羽をたたむ胡蝶/終■
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