第6章/碧き烈母 第5話/岩亀将軍の挽歌

   一


「あなたが、この戦いに勝利することです、アサド殿下」

 私を倒せ──将軍は、そう言っているのだ。

 歴戦の名将である岩亀将軍を倒し。

 アサドが実力でアル・シャルクの王たる器量を示すことでしか、この戦いは終わらない。

 英雄が英雄になるためには、倒されるべき悪竜が必要なのだ。

 英雄だから悪竜を倒すのではない。

 悪竜を倒すからこそ、英雄になるのである。


 ───この老いれの首を、お獲りなされ

 カジム将軍の眼は、そう言っていた。

 それは遂に、己の望む終焉の場を見つけた、おとこの目であった。

 アティルガン王家再興の、狼煙のろしでありいしずえになるのだ。

 これ以上の場があろうか。

「やっと、死に場所が見つかりましたわい」

「将軍……」

 アサドはゆっくりと将軍に手をさしのべた。

 その

 将軍もまた、その手を取ろうとした瞬間──


「アサド殿か……ウグっ!」

 突然、カジム将軍は短い声を発すると、糸を切られた操り人形のように、ヨロヨロと倒れた。

「将軍…? どうしたのだ、将軍!」

 その身体を抱き起こしたアサドの手に、ヌラリとしたものが触れた。

 それは今まで戦場で何度も触れた、あの……

「あ……ぶない!」

 カジム将軍はいきなりアサドを突き飛ばした。


「な?」

 一瞬前までアサドが立っていた場所に、巨大な黒い爪のような物が飛び出してくる。

 先端が鋭角に尖り、鈍い光を放つ長槍の穂先に似ているそれは、カジム将軍の血を吸って赤黒くヌメヌメと輝いていた。

 サウド副官がとっさにファラシャトとヴィリヤー軍師をかばって、不自由な足でテントの隅に飛び退く。

妖魔ジン?!」

 アサドは瞬時に腰の剣を抜き、突き出した爪の根本へ突き立てた。

 アサドの剣に確かな手応えを残し、だが、爪は迅雷の速さで地中にその姿を消した。

 将軍を突き刺した時は硬く鋼のようだった物が、消える時は縄のように柔らかくなって地面に吸い込まれていったのだ。

「将軍、しっかりしろ!」



   二


「何があった?」

 その時、テントの中の異様な物音に気付いたラビンが飛び込んできた。

「……将軍!」

 彼の目に飛び込んできたのは、

 血刀を手にカジム将軍を見下ろすアサド。

 呆然と立ち尽くす、ウルクル太守の娘と軍師。

 二人を制するように立ちはだかるサウド副官。

 そして、

 鮮血に染まって倒れ伏すカジム将軍……。

 そこで何が起こったか、一目瞭然であった。


 和議を装った将軍暗殺!


「アサド…きさまぁ……!」

 ラビンの半月刀が煌めいた。

 激しい怒りに切っ先が小刻みに震えている。

「和議と見せかけての謀殺かっ? 俺は貴様を買いかぶっていたようだ」

「待て、将軍を刺したのは俺ではな…」

「聞かぬっ!」

 ラビンは半月刀を一気に振りかぶると、叩きつけるように切り落とした。

 だが、剣はアサドを捉えず虚しく空を切り裂いた。


 すぐさま二撃三撃を繰り出すが、アサドの身体にはかすりもしない。狭いテントの中で、ラビンの斬撃をかわすアサドの技量は並外れていたが、彼はその技を攻撃に使おうとはしない。

「なぜ闘わん? その剣は飾りか!」

「闘う理由がない。」

「ふざけるなっ!」

 ラビンの怒号を聞いたカジム将軍の護衛達が、いっせいにテントに駆け寄る。

「将軍を刺したのではアサドではない!」

 アサドとラビンの間に、ファラシャトが割って入った。


 彼女の必死の言葉も、ラビンには共犯者の虚言にしか聞こえない。

「貴様も死ねぃっ!」

 怒りに我を忘れたラビンが、ファラシャトに剣を振り下ろそうとした時! 

 背後から何者かが、ラビンに抱きついて、その腕を封じた。

「な? しょ…将軍? 何を……」

「止…めよ…ラビン…」

 狼狽するラビンを必死に抑えながら、カジム将軍はしぼり出すようにアサドに言う。

「アサド様……お逃げなされ……!」



   三


 アサドは短く頷くと、テントを跳ね上げ一気に後方へと疾走した。

「引くぞファラシャト!」

「わかった!」

 ファラシャトとヴィリヤーが左右から、サウドを支えるようにして後を追う。

 異変に気づいて、アル・シャルク軍の精鋭が追いかけてきたら、多勢に無勢。

 僅かな人数で訪れたアサドたちは、容易にとりこにされるであろう。

 いやアサドだけならば、この赤い駿馬で駆けて、逃げおおせるだろう。

 だが、ファラシャトやサウド副官は、そうはいかない。

 むしろアサドは最後尾──殿しんがりを務め、一行を無事離脱させねばならない。

 場合によっては、交戦も覚悟の前である。


 巨大な赤馬に乗り、三人の馬を引いて駆け戻ってきたアサドは……

 渾身の力でラビンを押さえつけているカジム将軍を見つめた。

 将軍もかすむ眼で、アサドを見つめ返す。

 二人の唇に、同時にかすかな笑みが浮かんだ。

 アサドは浅くうなずくと、鞭を一閃。

 ウルクル軍の三人は、たちまち闇に紛れて砂丘の陰に姿を消した。


「待て、アサド…アサド! 将軍なぜ?!」

 ラビンの塩辛声の絶叫が、闇に虚しく消えていった。

 アサド達の後ろ姿が闇に消えたのを見届けると、カジム将軍はその場にドゥと崩れ落ちた。

 ヒューヒューと微かに漏れる息は、その死期が近いことを示している。

 最後の力を振り絞ったのだ。

 この老体のどこに、そんな力が残っていたのかと思わせる、異常な力であった。

 掴まれたラビンの肩は、将軍の指の形に内出血さえ起こしていた。


 妖魔の尻尾が肝臓を貫いた傷は、おそらくは門脈まで達しているのであろうか。

 息をするたびに吹き出すように出血している。

「将軍、しっかりして下さいっ! 軍医…軍医を呼んでこい!」

「…ラビン……ラビン…おるか」

「将軍、ここにおります将軍!」

「ラビン……わしはもう助からん。これが…わしの最後の……言葉だ、聞け!」

 思いがけず強い力でラビンの右手を掴みカッと双眼を見開くと、カジム将軍は切れ切れに言葉を繋いだ。

「……とこを…て…照らす月の元に……馳せよ」

「常世を照らす月? それは、それはどういう意味ですか、将軍? 将軍! 将………」

 言葉の意味が分からず、ラビンは咄嗟に聞き返した。



   四


 だが、ラビンの懸命な問いかけにも応えず、カジム将軍は何かを呟いていた。


 ───高き空

 万年雪を戴く遠き峰々

 風を孕んで煌めき揺蕩う

 はるけき緑の草の海……

 はるけき……緑の……草の……う………み…


 ラビンの右手から、将軍の握りしめた手が静かに、滑り落ちる。

 アル・シャルク北方方面愚のカジム将軍はその戦いの人生の幕を今、静かに閉じた。

 ついに帰ることの叶わなかった、遥か東の故郷。


 |はるけき緑の草の海《دریایی از علف های سبز دور》───それはアル・シャルクの別名



 だが、白い髭に埋もれた死に顔は幽かに微笑んでいた。

 やっと、死に場所が見つかりましたわい…アサドに告げたときと同じ、笑顔であった。


 一瞬、ラビンは呆然と地面に落ちた将軍の手を見つめていた。

 だがすぐその手を握りしめると、たった今、失われた命を呼び戻そうとでもするように、カジム将軍の身体を揺さぶり続けた。

「将軍…将軍……しょ…父…父上、父上ぇ!」

 老将軍の笑みは、しかし息子のラビンには見えなかった。

 戦場では軍規を優先し、ついに父と呼ぶことの叶わなかった、最愛の人物の死に。

 彼の心はそれを認めることなどできない。


「う……が…がががあああああああ…あ……あ、あ、あっ!」

 ただ一人の肉親を失ったラビンの絶叫が、砂漠の闇に響いた。

 絶叫は、呪詛の言葉となって虚空を切り裂いた。

「アサド……アサドぉ! 俺は必ずきさまを殺す!」



■第6章/碧き烈母 第5話/岩亀将軍の挽歌/終■

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