第6章/碧き烈母 第4話/東方内乱の顛末
一
「復讐を! ディフィディ・アーバスに、神官シダットに!」
───長い長い沈黙が流れた。
再びアサドか語り始めたが、その声には先程の
「以来八年、俺は復讐の時を待ち、今こうして戦いの中に身を置いている。その中でサウドと再会し、得難き友と出会い……多くの友を亡くした」
アサドが、息を吐き出した。
「そうか、そうでありましたか」
永い永い沈黙の後、カジム将軍は大きく溜め息をついた。
国王が倒れ神官シダットが実権を握って以来、この八年間に彼の心に沈殿した澱をすべて吐き出すかのように。
「国と民を見捨てて逃げようとした卑劣漢……父はアル・シャルクではそういうことになっているそうだな」
「表向きは…王家一家だけ逃げようとしたため、従兄弟のディフィディ殿が討ち取ったことになっております。ディフィディ殿はジェッダとすぐさま和議を結び、戦を終結させアル・シャルクに平和をもたらしたと、内外に喧伝しております」
「父の首は晒された後、どのような扱いを?」
「遺体は焼き尽くされ灰はユフラテ大河に流されました。先王の遺影を忍ぶものはことごとく破壊され……何もございません」
老将軍は伏し目がちにそう答えた。
西のバンダル国と交戦していたカジム将軍が、そこで停戦命令を受け、
急ぎ王都に帰還した時には、総ては既に終わっていた。
先王ラハマト三世は廃され、表向きは従兄弟のディフディ・アーバスが新王として即位していたが、実権は太陽神殿の神官シダットが握り恐怖政治が始まっていた。
ディフディ新王とシダットに、表だって疑義を唱える者はすべて不審な死を迎えた。
シダットが妖魔の力を使い、敵対者を次々に殺しているという風説も流れたが。
そう噂した者もまた、いつのまにか闇の中に消えていった。
二
王都に帰り着いたカジム将軍はその足でディフディ新王に拝謁。
王の代替わりを理由に、北方方面の将軍職を返上し、隠居を願い出たが──その場で身柄を拘束された。
将軍こそ先王派の中心人物と、目されていたのだ。
いや、本来ならば真っ先に粛清されていたはずの人間である。
西方からの帰還途中に、暗殺されても不思議ではなかった。
実際、新王ディフィディは将軍の謀反をでっち上げ、処刑しようとしたのだ。
だが、アル・シャルク一の清廉の士であり歴戦の知将として知られた彼の人望が、粛清を逃れさせた。
カジム将軍が王宮に軟禁されたその日、彼を慕う北方方面軍の全兵士が城邑の西に集結し、城内の近衛軍やディフィディ新王の私兵との全面対決をも辞さず、という姿勢を示したのだ。
北方方面軍以外の部隊からも、前王を慕いディフィディ新王に反感を持つ兵士が次々と合流し、それはアル・シャルクを二つに割る内乱を予兆させた。
解放か内乱か!
未だ政情不安定なおり、大規模な内乱は拙い。
これ幸いと国境を接する国々が攻め込んで来るは必定。
頼みのジェッダ神聖公国も長期の駐留を終え、本国に兵を引いた直後であった。いかに武断政治を標榜するディフィディ新王とて、それぐらいの判断はできた。もちろん、神官シダットの指図でもあったであろうが。
カジム将軍は解放されたが、皮肉にも彼はその職を退くに退けなくなった。アーバス朝アル・シャルクへの叛意がないことを示すため、将軍と北方方面軍は遠征に次ぐ遠征を余儀なくされた。
将軍が野にあらば、いつまたこのような騒ぎが起こるともしれない。シダットはカジムの将としての能力を利用尽くし、合法的に抹殺する方法を選んだのだ。
以来八年、その常に身は異国の戦場にあり、故国に帰還したことはただの一度もない。
負けて当然、勝てば奇跡。
そのような戦いばかりを命令され続け、いつ死んでも不思議はなかった。
後に中原の各国史に《岩亀将軍西征》と称せられる大長征も、その実情は華やかな征服とはほど遠い。
武人としての意地と誇りと幸運に助けられ、今日まで生きながらえてきたのだ。
三
「アル・シャルクは変わってしまいました……」
カジム将軍の記憶にあるのは八年前のアハマル朝が崩壊した直後のアル・シャルクであった。だが、その時既に愛する祖国は無惨な様になり果てていた。
「シダットの圧政の前にアル・シャルクは戦の絶えぬ国となった。すべての国を滅ぼし中原に覇を唱えるまで、シダットの野望は止まらぬだろう」
「いいや、それでは収まらぬでしょうな」
カジム将軍はアサドの言葉を軽く否定した。その眼差しは遠くを見ている。
「シダットめは、中原を征服した後は海を越え、峰々を越え、世界のすべてを我が手に収めるまで、止まらぬでしょう」
先王失脚以降の、自らの来し方行く末に思いを馳せているのだろうか、将軍の声には悲しみがこもる。
「己を伝説の大征服者、双角の大イスカンダルにでも比すつもりか? 愚かな!」
アサドが吐き出すように言う。
「彼はアル・シャルクを我が物にするため、暗黒神シャイターンと血の契約を交わした…との噂でございます、いや真実かもしれませぬ」
「だが、アル・シャルクの正統な王子が存命と知った今、それを黙って見過ごす将軍ではあるまい?」
アサドはカジム将軍の手を強く握った。
歴戦の勇者である将軍の節くれだった手よりも、さらにアサドの手は固くゴツゴツとしている。
将軍の記憶に残る快活な十三才の少年を、目の前の沈着な男に変貌させた苦難の年月が、その手に深く刻み込まれていた。
どれほどの辛酸を嘗めたのであろうか?
「カジム将軍、あなたはもっとも父王の信任厚き方だった。私と共にシダットを倒すために起ってはくれまいか?」
アサドの熱い言葉に、しかし将軍は黙って首を振った。
否───
そこには重い拒絶があった。
「ディフィディ王と神官シダットによる、卑劣な王位
「なぜだ? なぜできぬ、カジム将軍? 理由を教えてくれ」
四
「アル・シャルクは大きくなりすぎました」
将軍の老いた眼に、ゆっくりと涙があふれてきた。
「私は己のなしてきた所業によって、あなた様の元に馳せ参じることが叶わぬのです」
将軍は涙が頬を伝い白い髭に吸い込まれるのも気付かぬように、呟いた。
「ラハマト陛下が廃されてから八年…ジェッダ神聖公国と同盟したアル・シャルクは先王の時代と比較して国土は三倍、民は二倍になりもうした。今、私とあなた様が手を結び、王位奪還を宣すればアル・シャルクはいかがあいなりましょうや?」
今度は、アサドが言葉に詰まる版であった。
「…国内は二分され対立、八年間に征服してきた地の民はその混乱に乗じて決起、ジェッダはディフィディとの同盟を楯に軍事介入───」
「そのとおりでございます。アル・シャルクの緑の草の海は、赤い血の海になりましょう」
「最悪の場合…俺が帰るべき国自体がなくなる……」
老将は小さく頷いた。
「それに、私一人がウルクルとの和議を唱えても、兵の中には友や兄弟を亡くした者も、多くおります。北方方面軍の大部分の兵は従いますまい」
重い沈黙が、その場を支配した。
誰も言葉を発しない。
アサドも、ファラシャトも、カジム副官も。
静寂を破ったのは、カジム将軍であった。
「道はひとつ」
「それは?」
「あなたが勝利することです。アル・シャルク北方方面軍の、稀代の名将に」
老将は口元に笑みを浮かべ、柔らかく告げた。
■第6章/碧き烈母 第4話/東方内乱の顛末/終■
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