第4章/玄き老将 第6話/胡蝶の怒りと涙

   一


 ファラシャトの母親…ウルクルの大守アミールの正妃は、西方のバルバロ人の血を引いていた。

 どのような経緯であったかは定かではないが、ウルクルの市場で北方との貿易で名を上げた男──アディブと呼ばれていた男を、一目で気に入って、亡き夫の後釜に据えた。

 アディブとは狼、またはオス鬣犬ハイエナの意味である。

 周囲の反対を押し切って、太守にしたのだ。

 太守となって八ヶ月後には、ファラシャトに妹が生まれた。


 その誕生の時から、いや、すでに正妃が懐妊したと知らされた時から密かに、アディブ新大守の周囲では、ある疑いを抱く者が少なくなかった。

 赤児は月足らずで生まれたとは思えぬほど、まるまる太り、身体つきもしっかりとしている。

 しかも目の色も髪の色も肌の色も母親にそっくりだが、大守には少しも似ていない……赤児の父親ははたして本当に大守なのか?

 形の上でも私生児を生まないため、裏でアディブと取引をし、後継に据えたのではないか?

 あるいは、事実を知ったアディブが、金で太守の後釜の座を買ったのではないか?


 今まで多くの女たちがアディブ新大守の愛人として存在したが、子を産んだ者はおろか身籠った者すらいなかったではないか。

 なのに大守が老年にさしかかった今になって、なぜ正妃が身籠ったのか? 正妃は婚礼の前にすでに身籠っていたのではないか?

 だが大守の母子への愛が、周囲の声を封じさせた。

 正妃への寵愛が深くなればなるほど、彼女が産んだ連れ子のファラシャトへの愛も深まり、一家四人は絵に書いたような幸福な日々を過ごしていた。


 それが、三年前の夏に突然、壊れたのだ。

 はやり病でたった一日寝付いただけで、あっけなく正妃は世を去った。

 翌日、妹も死んだ。

 残された大守の嘆きは深く、それはもはや狂気を思わせる程であった。

 葬儀の後、亡き正妃の部屋にこもりきり、形見の衣装をかき抱いてその残り香に埋もれ、寝食も政務も忘れた。



   二


 そうして、数カ月が過ぎたある日。

 正妃の部屋の窓からボンヤリと庭を見下ろしていた大守の目が、フイに強い輝きを帯びた。

 その視線の先に一人の少女がいた。

 赤味がかった金の髪、淡い青の瞳、白い肌。

 いつのまにか、亡き正妃そっくりに成長していたファラシャトが……。


 その夜、正妃が死んで以来初めて、太守が娘の部屋を訪れた。

 ギラギラと光る眼でファラシャトを見つめ、驚くほどの力で彼女を抱きすくめながら。

 太守はその耳元である言葉を呼び続けた。

 それは、亡き正妃の名であった。

 ファラシャトは、護身用の短剣ジャンビアで、太守の脇腹を刺した。


「な、何をする?」

 激痛で正気を取り戻した太守は、驚きの声を上げた。

「あたしは母様ではありません!」

「ファラシャ…」

「次は迷わず、心の臓を刺します」

 ファラシャトの、震えながらも覚悟を決めた眼に、太守は引き下がった。

 致命傷にこそならなかったが、宮廷医が呼ばれ、縫合し、事なきを得た。

 大守が去ってからファラシャトは、部屋に鍵をかけて閉じこもり、誰の前にも姿を現さなかった。


 数日後ようやく現れたファラシャトの髪が、艶のない重い黒に変わっているのに人々は驚いた。

 大守は言葉を尽くして元に戻させようとしたが、彼女は冷たい目で父親を見つめるだけで、ガンとして応じなかった。

「近衛師団の長として、派手な髪は浮ついて見えますので」とだけ言って。

 人々はさまざまに理由を憶測したが───。

 真の答えを知っているのは、大守とファラシャトの二人だけであった。



   三


 拳を握りしめて黙り込んだファラシャトに、アサドが静かに言う。

「俺が髪を染め眼の色を隠すのは、俺自身の命と赤獅団の存在に、関わることだからだ。時が至れば、俺は躊躇なく赤い髪も碧眼も世に知らしめる」

 その言葉は静かだが、何か固い決意と意志が込められていた。

 余人には窺い知れない強烈で凶暴な情念。

 その激烈さに、思わず顔を上げたファラシャトは、風の中に燃え上がる炎と化して立つアサドを見た。しかしそれも一瞬、その炎は大気と同化して風の中に溶けていった。

「だが、今はまだその時ではないだけだ」 

 彼らの周りには、それ以上踏み込んだ事は訊けない、訊かせない雰囲気が漂っていた。


 アサドは懐から予備の被り布を取り出すと、端を適当な幅で裂きファラシャトの左手首の傷に巻いた。

「痛みはないか? そうか…キツかったら言ってくれ」

 彼女の顔についた泥を拭うと、アサドは自分が先程まで自分でまとっていた彼女のベールを、被せてやる。

「これでおまえの髪も、誰にも見られない」

 淡々と語るアサドに、だがファラシャトは素直に謝意を口にできず、眼を逸らすしかなかった。

(どうして、この男の前にいると自分はこうなんだろう?)

 何度目かの自問を繰り返したファラシャトの眼にふと、アサドの右手中指からの出血が目に入った。

「それはさっき私が噛みついた……」

「ん? 大丈夫だ。出血はひどいが、大した傷じゃない。あの状況では仕方なかろう」


 葦原で先刻、ファラシャトを組み伏せたのは、アサドであった。

 ファラシャトは自分を襲ってきた男に、せめて一矢報いようと口を塞いでいた右手の指に思いきり噛みついたのだ。

 肉の一部が噛み取られてしまった傷口から、太い血の筋が手首から袖口まで繋がっている。

「大丈夫なわけないじゃない! 右手の中指を怪我したら、剣も弓もろくに扱えなくなる」

「痛みを感じないよう、訓練してある。これぐらいなら、城に帰ってから手当すれば十分だ」


 アサドの言葉を無視して、ファラシャトは自分の手首に巻かれた包帯を解くと、アサドの傷口に巻いた。

 傷の手当に慣れていないのか、不器用な手つきで、それでも真剣な顔で巻く。

「ほら、これで少しは……」

 そう言って顔をあげたファラシャトの眼に、自分を真っ直ぐに見つめるアサドの蒼い瞳が飛び込んできた。

 あわてて視線を逸らし、彼の手を包んでいた両手も離す。

 離した後で、胸の奥がまた微かに痛んだ。



   四


「ファラシャト……」

「な、なに? そりゃあ、おまえよりは包帯巻くのは上手くないけど、止血にはこれで十分なはずだぞ!」

 思わず早口になる自分に、情けなさを感じながらもファラシャトは、自分を止められないのだ。

「ありがとう」

「え? ああ、そんな礼には…」

 命を助けて貰った自分が礼も言わず、自分が付けた傷に自分で包帯を巻いて何故礼を言われる? ありえない。

 これでは、ワガママな子供の愚図りを、よいよしと許すようなモノではないか。


「うっ……」

 不意にファラシャトの眼から涙がこぼれた。

 止めようとして必死にこらえると、かえってポロポロとこぼれ落ちる。

「ファラシャト…」

 突然の涙に、アサドは狼狽していた。

 今まで、無表情な男が、初めて見せる戸惑い。

 それがファラシャトには、さらに悔しかった。

 涙で他人の心を動かすのは、武人ではない。ただの女だ。


 気まずい沈黙を破ったのは、ミアトの明るい声であった。

「大将ォ──ッ! 姉ちゃん無事だった──ッ?」

 その声に、アサドが素早く眼帯を着けた。

 赤い髪も蒼い瞳も、両方とも消えた。

 ミアトが葦原をかき分け、馬で駆け寄ってくる。

 後ろには赤獅団の部下と、農民部隊の兵が、馬やラバで続く。


 かなりの数の騎馬隊だが、馬の蹄を駱駝の毛で編んだ分厚い布でくるんでいるために、ほとんど足音がしない。

 その中には、はぐれたヴィリヤー軍師の姿もあった。

「軍師殿!」

「ファラシャト殿!」

 二人は同時に声を上げた。

 寄る辺なかった二人には、お互いが救いに思えたのであった。


■第4章/玄き老将 第6話/胡蝶の怒りと涙/終■

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る