第4章/玄き老将 第5話/赤き髪と蒼き瞳
一
満月を背にして、葦の陰に女がひざまずいていた。
月明かりの逆光の影になって顔立ちは判らない。
しかし
先程彼らが見た印象的な赤い髪を月明かりが縁取り、黒い服は泥まみれになり所々が破け、うなじから左肩にかけて白い肌がむき出しになっている。
アル・シャルクの追手達の中に激しい興奮が膨れ上がっていた。
女はうつむいて顔を隠し、両手を首の後ろで握っている。
それは明らかに服従の姿勢であった。
「へ、へへへへへ……ようやく諦めやがったか」
「ウルクル軍の中では、高位の指揮官らしいが、しょせんは女だ」
兵達の笑いが、だんだんと獣じみてきた。
右手の湾刀を、左手に握り変える。
せっかくの獲物だ、殺すつもりなど無い。
ただ、抵抗された時の脅しのために左手に持ったのだ。
「ヒャッハァ~!」
男達はいっせいに、ファラシャトに向かって飛びかかった。
女の影は観念したように、微動だにしない。
だが、女の服に触れようとしたその瞬間、先頭の男は白い光が走り───
「えへ?」
己が視界が真っ赤に染まるのを見た。
見た瞬間に絶命していた。
振り下ろされた長剣が、軌道を変えて下から上に跳ね上がった瞬間、二人目の男が血煙をあげて倒れた。
あきらかに、この赤髪の人物は、ファラシャトではなかった。
幾ら訓練を積んでいようと、女にこの長大な剣を、こうも迅速に振り回せるはずがない。
ならば、これは……。
剣を振るった勢いで、女の頭部を覆っていた薄布が、落ちた。
立っていたのはアサド・アハマル。
手にするは豪剣、バルート副司令官を一刀両断にした豪剣であった。
二
「ヒイイイイッ!」
欲望からの油断が混乱に、混乱が恐怖に、恐怖が絶望に変わるのに、かかった時間はほんの数秒。
三人目のアル・シャルク兵が背を向けて逃げ出そうとした瞬間、その頚動脈に
「ひゅるるるるるるううう…………ゔ」
どこか間の抜けた絶叫を発すると、アル・シャルク兵はパタリと倒れた。
その背後に、
「うるさい男だな」
戦輪は円月輪とも呼ばれる、アル・シャルクよりもさらに東方の地域の、投擲武器である。
鉄の輪の中央に指を入れ回しながら投擲する方法と、指で挟み投擲する方法がある。
前者は制御が難しいが、技術的には
後者のほうが、威力は大きいが、技術的には難しい。
アサドは両手で放ち、二個とも首に命中させていた。
恐るべき技量である。
「助けてくれぇえ……ウググッ!?」
更に逃げる四人目の兵士に、葦の草むらから何かが飛びかかった。
子牛ほどの体格のある、四脚の獣が。
獣は口に咥えた刃物で、アル・シャルク兵の頸動脈を
それは砂漠の名犬サルーク。
口には
「まだ伏兵が何人かいるはずだ、始末は頼んだぞサグ」
血刀を
声を出さずうなずくとサグは、犬を追って葦原の闇の中へと、消えていった。
アル・シャルク軍とウルクル軍の緒戦の後、赤獅団の別働隊である犬部隊とサグは、ウルクルの城塞には入らず、外部で野営していた。
この葦原は水もあり、その水を求めて草食動物も集まる。
サルークの犬部隊が隠れるには、うってつけの場所でもあったから。
三
サグを見送るとアサドは、川岸の窪みを覗き込んだ。
「おい、怪我はないか?」
窪みから、返事はなかった。
声をかけられた人物は、怪我のために返答できなかったわけではない。
膝を抱えうずくまるファラシャトの眼が、これ以上無いほど大きく見開かれていた。
銀の月の光の中に、ファラシャトの知らないアサドが立っていた。
赤
ファラシャトの髪にも似た──いや、それよりもはるかに鮮烈な、燃え上がる炎のような赤い髪が、アサドの額に垂れていた。
急いで洗い流したために、彼の髪の
しかしこの男の本来の髪の色は、紛れもなく赤であった。
そして蒼
眼帯で常に覆われていた、盲いたはずの彼の右眼は、深く濃い蒼色だった。
酸性の湖のようなファラシャトの瞳の淡い青とは違う、果てしない空を思わせる深い蒼。
赤い髪、右眼の蒼と左眼の漆黒、ファラシャトの知らないアサド───。
「おまえ……その眼…髪は?」
「これが俺本来の、眼と髪の色。母から貰った色だ」
「アサド・アハマル──赤き獅子の名のとおりだな」
ファラシャトの問いに答えながら、アサドは濡れた髪を器用に束ねると、手慣れた手捌きで三つ編みにし、白い木綿の被り布で包み、赤い紐で額から後頭部を巻いて留める。
大きめの被り布にすっぽりと包まれると、アサドの髪はどこからも見ることはできなかった。
赤髪がもたらした強烈な印象は消え、ファラシャトが知っているアサドに戻った。
──いや、ファラシャトが知っていると思っていたアサドとは、いったい何者であろうか?
ファラシャトの知らない赤髪碧眼のアサドが、本当のアサドではないのか?
そう考えた瞬間、彼女は身の回りに何か暗く不気味な空間がポッカリと空いたような心細さを覚えた。
「なぜ左眼は黒い…?」
「こちらは義眼だ。昔、戦いの最中に失った」
その左眼はどう見ても義眼には見えない、よほど精巧なできなのだろう。
彼のどこか焦点の合わない、遠くを見るような眼差しは、そう言われれば納得できる。
義眼だったのだ。
四
「この眼帯は昔ワディ…いや、占い師の婆さんから貰った鏡で、造ったものだ」
言いながら、眼帯をファラシャトにアサドは手渡した。
「表から見ると黒曜石のように黒い色だが、裏から見ると透明で、普通に物が見える、ほら」
受け取った眼帯を月に向けると、確かに内側からくっきりと見える透明な
古代の秘法で造られた物であろうか、あるいは何かの魔法が関わっているのか?
判然としないが不気味な予感がして、ファラシャトは「妖魔の邪眼みたいだ」と、アサドに眼帯を突っ返した。
しばしの沈黙の後、ファラシャトは自分を励ますように少し甲高い声で、アサドに問いかけた。
「おまえの母親は……バルバロ人なのか?」
「ああ。父は東方の人間だが、母は西方のバルバロ人だ。二人の間にどんな出会いがあったかは、よく知らんがな」
「おまえ、その赤い髪や蒼い眼が、嫌いなのか?」
彼女の言葉にどこか詰問するような、何をどう答えても爆発しそうな怒りが含まれているのに、アサドは気づいた。
「俺はこの髪の色も眼の色も、気に入っている。母を思い出す
特に、隠し立てする風情もなく、アサドは淡々と答えた。
「……ならば、何故その赤い髪を黒く染める? 蒼い眼を眼帯で隠す? この中原でバルバロ人との混血なんて、ちっとも珍しくもない、私だってそうだ。わざわざ隠す必要なんて無いじゃないか。嫌いなんだろう? 本当のことを言えよ、本当はその蒼い眼と赤い髪が大っ嫌いなんだろう!」
ファラシャトの剣幕に、珍しくアサドの表情が動いた。
「妙なことを言うなぁ。ファラシャト殿は自分の髪を黒く染めるのは、嫌いだからなのか? だから隠すのか?」
アサドの問いに、ファラシャトはプイと横を向いた。聞かれたくないことを、聞かれた子どものように。
「し、質問に質問で返すな、卑怯だ……」
唇を噛みしめ閉じたファラシャトの眼に、亡き母の姿が浮かぶ。
白い肌、淡い青の眼、赤みがかった金髪。
美しかった母。
ウルクルの花と謳われた美貌。
そして、それを見つめる太守───。
彼女の中で、思い出したくない古い記憶が、蘇ってきた。
それは、嘔吐を伴うような、苦い記憶であったから。
■第4章/玄き老将 第5話/赤き髪と蒼き瞳/終■
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