第4章/玄き老将 第4話/葦の原の攻防戦
一
葦の葉がざわめき、不意にヴィリヤー軍師は回想から醒めた。
互いに呼び交わしながら、大勢の人間が近づいてくる。
その言葉はウルクルのものではない、東方の方言であった。
アル・シャルク兵だ!
そうわかった瞬間、背筋をザワザワと
ヴィリヤー軍師は短剣を握りしめ、立ち上がった。
ここで捕まるわけにはいかぬ。
そう意を決し、音を立てぬように足を踏み出したその瞬間───アル・シャルク兵と鉢合わせした。
無我夢中で短剣を振り回すと、重い手応えがあり、悲鳴を上げて目の前の敵が倒れた。
彼にとっては、初めて敵兵を倒した経験である。
戦場も死体も数多く見てきたが、人を殺すのは初めてであった。
ふわふわと腰が抜けるような、胃液がせり上がってくるような、不思議な感覚にヴィリヤー軍師は包まれていた。
だが、呆然としている暇は、一瞬しかなかった。
本来は、このような作戦に参加するような立場ではない。
だが、ファラシャトの手前、無理に参加した。
もっと正確に言えば、あの傭兵隊長に対する対抗心だ。
だが、その子どものような意地が、自身を窮地に追い込んだのだ。
敵兵の中の一人が、軍師が短剣しか持っていないのに、
「こいつ軍師だっ! 殺すなよ! 捕らえて司令部へ連行しろ!」
じりじりと包囲の輪が縮まる。
ヴィリヤー軍師
(私は捕まるわけにはいかぬ! ウルクルのために……否、ファラシャト殿のためにも)
ヴィリヤーは再び、短剣を握り直した。
絶望の中、なけなしの勇気を振り絞って。
二
雲間から覗く満月の位置が、西へと移っている。
動いていないように見えても、やはり月は動いている。
少しずつだが、確実に。
ファラシャトが葦原に身を隠してから、実際には二刻が過ぎていたのだ。
もう、大丈夫だろう。
そう確信したファラシャトは、静かに動き出した。
河の対岸に渡り、城まで迂回して還る。それが、身を潜ませている間に彼女が考えていた方法であった。
葦原を抜け、ゆっくりと泳ぎだしたファラシャトの耳に、男の怒鳴り声が飛び込んできた。
「いたぞッ! 川を渡ろうとしている。逃がすかあ!」
執拗な追跡者達は、ファラシャト以上のねばり強さで、彼女が動き出すのを待っていたのである。
咄嗟にファラシャトは、葦原の方に身を
河の中では、身の隠しようがない。
葦原の中であれば、敵兵の追跡を逃れる確率が大きくなる。
彼女としては、当然の選択であった。
「おい! 女だっ! 赤毛の女だぞ! 絶対逃がすなよ……へへへ」
アル・シャルク兵達の下卑た笑いに、ファラシャトの鼓動が激しくなった。
(…しまった!)
月明かりに己の長い髪を見れば、長時間水に浸かったそれは、染粉が洗い流され、本来のつややかな赤味がかった金髪に戻っていた。
赤味がかった金髪、白い肌の、西方の血を色濃く感じさせる女。
長い遠征に女っ気無しで過ごして来たアル・シャルク兵にとってそれは強烈な誘惑であった。
しかも敵の女…オスの本能を、劣情を刺激するには十分である。
彼らの考えを明瞭に察し、ファラシャトは身震いした。
絶対に捕まりたくない。
アル・シャクル兵も
とにかく、葦原の奥深くに身を隠さなくては…………
そう思って一歩踏み出したその瞬間、
「ムグウッ!?」
不意に、荒々しい手がファラシャトの口元を、覆った。
三
───アル・シャルク兵?
反射的に抵抗しようとしたファラシャトの身体が、しかしピクリとも動かない。
両腕を交差させられて、右の手首を片手で抑えられているのだと、ファラシャトは悟った。
それほど強力な腕力で動きを制せられている訳ではない。
体の関節部分を的確に抑え、必要最小限の力で効率的に自由を奪われている。
膝で蹴りあげようとしたファラシャトの右足の爪先が地面を蹴った瞬間、左の足首のやや上の部分を軽く払われた。
攻撃によって不安定になった重心を逆に利用され、彼女の身体は他愛なく葦原に転がる。
まるで湿って重くなった粘土のように、男の身体がファラシャトの身体にズシリとのしかかってきた。
男は自分の太股でファラシャトの太股を外側から締め付け、膝の隙間に、後ろに回した自分の膝から下肢を素早くこじ入れると、自分の臑とファラシャトの臑が正面から重なり合うように密着させ、自分の足首を彼女の足首にガッチリと絡めた。
「…………!」
ファラシャトの脚に男の脚が、樹に蔦が絡みついたかのように見える。
多少なりとも体術の心得があるファラシャトが、まるで針で留められた虫のように、男の成すがままであった。
「……!」
声すら発することもできない。ただ、喉の奥で絶叫が呑み込まれる。
男が軽く力を入れると、ファラシャトの硬く閉じられていた両足が、左右に広げられてしまった。
男の息が耳元にかかる。
「…!」
必死の形相で走ってきたアル・シャルク兵達の視界に、葦原が飛び込んできた。
「ちくしょう! こんな所に逃げ込まれたんじゃあ……」
思った以上に葦の背は高く、密生していた。
ファラシャトを追ってきたのは総勢で五人。
シラミ潰しに探索するにはこの葦原は大きすぎる。
久しぶりの獲物に歓喜していた狩人達は、今度はやり場のない怒りに眼をぎらつかせていた。
四
「どうする? 俺達だけじゃ、ここから女を探し出すのはとても無理だぜ」
「援軍を呼ぶか?」
「そんな事をしている内に、逃げられちまう。それに人数が少ない方が楽しめるじゃねぇか」
早くも、捕獲後の相談を始めている。
「じゃあ、どうすんだよッ!」
彼らのイライラが、頂点に達しそうなその時、一人が呟いた。
「焼いちまおう……」
いきなりの提案に、もうひとりは戸惑った。
「え?」
「焼くんだよ、葦を! 女がどこに隠れていようと、火に囲まれれば飛び出して来るしかねぇ」
追手の眼に欲望が膨れ上がった、狂気の光りが宿っている。
葦原の中を巧妙に逃げたとしても、移動できる距離はたかが知れている。
不案内な葦原に踏み込み探し回るよりも、乾期で半分枯れかけた葦に火を放てば、潜伏した獲物は自分から飛び出してくる。
これ以上の策はなかった。
「おまえ火種はあるな? あるか! よし、二手に分かれるんだ」
火打ち石を刀の柄に勢い良くたたきつけると、火花が飛ぶ。それを蒲の穂の繊維を揉みほぐし、蒸し焼きにして半ば炭化させた物に着火させる。手慣れた者がやると、すぐに火種がついた。
それに息を吹きかけて火をおこす。携帯用の付木に火種を移すと、赤かった火は一気に炎となり、蛇の舌のようにチロチロと伸びていく。
手折った枯れ葦の束に火を移して即席の松明を造ると、追手は葦原のファラシャトに向かって怒鳴った。
「ウォオ~イ! おんなァ~聞こえているか~!?」
アル・シャクル兵の野太い声が、葦原を渡った。
「これからこの葦の原に火をかける! 逃げられるもんなら逃げてみろ! 素直に捕虜になるのなら、今の内だぞォ~。丸焼けになりたいのならそうしろ!」
最後通牒である。
アル・シャクル兵たちは数瞬待ったが、返事はなかった。
意を決してウルクル兵が葦の根本に火を付けようとした瞬間───。
彼らのすぐ後方で葦がざわめく音がした。
「フ…へへへ、観念したかよ、嬢ちゃん」
兵達の口元に、下卑た笑みが浮かんだ。
満月を背にして、葦の葉の陰に、女がひざまずいていた。
■第4章/玄き老将 第4話/葦の原の攻防戦/終■
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