第4章/玄き老将 第7話/霧中の蜘蛛の糸
一
数刻前───
葦原でアル・シャルク兵に囲まれた時、ヴィリヤーは死を覚悟した。
彼がアル・シャルクによってウルクルの戦力を白状させられれば、そこでウルクルの敗北が決まる。
否、軍師が敵に捕らわれたと知れるだけでも、水を絶たれた味方の士気はどん底にまで落ちる。それだけは避けなければならなかった。
彼が短剣を逆手に握り、己の頸動脈に突き立てようとした瞬間、彼を取り囲んでいた敵兵が絶叫と共に次々と倒れた。
一瞬、何が起こったのか理解できず、突っ立ったままのヴィリヤーの前に、顎髭を生やした顔が現れた。
それは、アサドの傍らに常に従っている赤獅団の副官サウドであった。そして彼から、ヴィリヤーはすべてを聞いたのだ。
アサドの率いる赤獅団と農民部隊は、ファラシャト達の出撃から短時間の内に追いつき、ここで待ち伏せしてアル・シャルク軍の敵兵を殲滅する作戦だったのだと言う。
水を止められたウルクルの反応。
それを予想して罠を張ったアル・シャルクの動き。
そのすべてを見越して、アサドが立てた迎撃作戦。
ヴィリヤー軍師は今更ながら、思い知ったのである。
馬による高速機動戦法を、とことんまで知り尽くしているのだ、このアサドという男は。
敵が予想するよりも数倍の速度で、作戦を遂行し、迅速に撤収する。
予想を覆された側は、一気に混乱状態に陥る。
いや、それだけではない。
闘いにおける兵の心理を、敵との駆け引きを、闘って勝ち抜き、生き残るための総てを、二十歳そこそこのこの男は知り尽くしている!
「鳩の塔の敵は全滅させたよ、大将。とりあえず、堰止められた水は流して置いたから、今頃はウルクルのお城にも水が届いてるはずだよ」
ミアトの言葉にアサドはうなずき、その小さな頭をぽんと叩いた。
ファラシャトはアサドを凝視していた。
もう、涙は乾いている。
この男と赤獅団は、僅かの手勢で敵の包囲網を突破し、鳩の塔を奪回し、ついでに作戦に失敗した自分達まで救出しに来たというのか…。
ファラシャトは驚愕するしかなかった。
二
アサド・アハマルと名乗るこの男は。
自分とは、将としての器が違っている。
自分とは、見ているところが違う。
たかが一傭兵隊長という器量を越えるものを、この男は持っていた。
アサドが、どのような野望を持っているのかは、分からない。
だが、その野望がどんなものであれ、それを止めることは、自分にはできない。
ヴィリヤー軍師はもちろん、ウルクルの兵全てが束になっても、いや世界の総てが立ちはだかろうとも、この男の野望を止めることなどできはしない。
それだけは、わかった。
上に立つ者としての器の違い、見識の違い…それはヴィリヤーもひしひしと感じていた。ふと、彼は思った。
『この男なら…このアサドという男の下でなら、私は今まで学んだ軍学の総てを生かせるだろう。そして彼やあの落ちついた副官から、さらに多くを学べるに違いない』
ようやくヴィリヤーは理解していた。
アサドというこの若い傭兵の一軍の将としての、否、一国の王としての…と言っても過言ではないその大きさを…。
「あれ? 大将、怪我しちゃったの? 右手」
「ああ、葦の葉で切ったんだ。大したことはない。それよりファラシャト、あと二刻もすればアル・シャルク軍は鳩の塔が奪回されたことに気づくはずだ。その前に城に帰らないとな」
「え、あ……ああ。鳩の塔はどうするんだ? このまま放棄するのか」
「やむをえん。あそこを守りきるだけの兵力も備えもない以上、敵が気づくまでの間に流せるだけの水を流して、城に蓄えるしかあるまい」
的確な判断だった。
ファラシャトもヴィリヤーも、同意するしかない、それは的確な判断だった。
アサドがミアトの引いてきた馬にまたがり、腕を伸ばしてファラシャトを鞍の前に抱え上げた。
アサドの振る舞いは大胆で、しかし自然体であった。
誰も違和感を持たなかった。
居心地の悪い顔をしながら、ファラシャトはその居心地のよい場所にいることを、受け入れていた。
「城へ帰るぞ」
アサドの声が闇に溶けた。
三
「霧か……」
ユフラテ大河の支流からウルクルへの帰途、ゴツゴツと切り立った足場の悪い岩山の途中で、ふとアサドが呟いた。
「今の時期は、海からの霧が湧きます」
農民兵の一人が答える。
皆、馬から降り、その手綱を引いていた。
馬は不安そうに小さくいなないている。
徐々に濃くなりだした霧は世界を乳白色に変えてゆき、湿った空気は乾いた肌に快い湿り気を与える。
生命の源、水。
「昼の乾きが少しは癒されるが……」
被り布から僅かにはみ出したアサドの燃えるように赤い髪を、細かい霧が水滴となって濡らしてゆく。
もちろん、それを見ることができるのは、ファラシャトただ一人ではあったが。
サク……
歩きだそうとしたアサドの頬に、突然何かが触れ、突如出現した殺気に、その身体が反応した。
「止まれッ!」
「隊長、どうかしまし……ギャアッッ!?」
アサドに触れようとした部下の腕が一瞬にして切断される。
「なんだ?」
「敵襲か!」
血の匂いに反応した兵達が、剣を抜きはなって身構えた瞬間、あちこちから血飛沫が上がった。
姿の見えぬ敵
音を立てぬ敵
原因が解らぬまま、次々と兵達の体が傷ついていく。
兵達の怒号と悲鳴が交差する。
「どこだあ? どこから攻撃してくる!」
「右だ!」
「違う、左だ!」
「左には誰もいないぞ、おい!
混乱が混乱を呼び、さらに恐怖を呼ぶ。
「ち…畜生! どこだ? おらあ、かかってこい!」
「ひいいい…」
「た、た、た、隊長! どうすれば…」
元々が農民上がりの兵達は、こんな時には他愛なく動揺してしまう。
四
「動くなっ!」
アサドの鋭い声が皆を制した。
「敵の手段がわかるまで、不用意に動くな……」
アサドの言葉に、赤獅団はいっさいの動きを止めた。
もちろん、状況によっては部隊全体で素早い回避行動をとった方が良い。
だがアサドの昔からの部下達は、このような場合の彼の危機回避能力の的確さを、熟知しているようだった。
傭兵が動かないのを見て、農民兵達も動きを止める。
静寂がその場を支配する。
敵の攻撃はない。
静寂…
静寂……
静寂………
ただ静寂のみが流れる
アサドと傭兵達は神経を張りつめ身構えを崩さないまま、ピクリとも動かない。呼吸の音さえ潜めたままだ。
ファラシャトとヴィリヤーも、なんとかそれに倣っていたが、二人の我慢が限界に達しようとした時、若い農民兵の緊張の糸がついに切れた。
「ち…ちくしょう! アル・シャルクの奴等だな! 汚ねぇ手を使いやがって、姿をあらわ……ギャアア!!」」
ヒステリックな声をあげて剣を振り回した新兵は、全身から鮮血をほとばしらせてその場に崩れ落ちた。
四肢が鋭利な刃物で切断され四方に飛び散った。
「ヒィィィッッ!」
腕が顔に当たった農民兵の一人が絶叫し、その声が媒介して農民兵達の間に恐怖が波のように広がって行く。
さらに何人かが剣を抜こうとした。
「やめろっ!」
アサドの声が鋭く響く。
「動けば死ぬぞ……」
そこには反抗を許さぬ強さがあった。アサドに対する恐怖と信頼が兵達の動揺を押さえつけた。
「俺を信じろ」
自信に満ちた低い声が兵士達の心を落ちつかせる。
「こちらが動かない限り敵は攻撃しない……いや、おそらくできないのだ」
アサドの言葉に呼応するように、今まで雲に隠れていた月がその姿を現した。
その光に照らされて、彼らは自分達が何に囲まれているのかを知った。
闇の中で月の光に微かに煌めく銀の……。
「これか………ミアト!」
「わかってらぁっ!」
腰にぶら下げた革袋を掴むと、ミアトは中身の液体を口いっぱいに流し込む。
「なにをするつもりだ、小僧!?」
身体の正面にかざした松明に向かって、呼気と共に液体を吐き出した。
空気を震わす轟音ときな臭い匂いと共に、ミアトの口から大量の炎が吹き出された。
■第4章/玄き老将 第7話/霧中の蜘蛛の糸/終■
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