第23話
”第1章
暗闇を背負っているみたいに屈まった背中を伸ばして少年は管を掴んだ。錆が管にあけた無数の穴の一つに唇を押し当てて少年は「ジュズズズズゥ」と下品な音を立てながら何かを吸った。それは、暗闇の出血みたいなドロドロした液体だった。錆の苦味と混ざったその甘味が少年の大好物だった。”
「たいちょーう!!!」
男は腕よりも長い長鼻で群衆を左右に掻き分けながらやってきた。
「田中ぁ!」
ピユは真っ青な黄色いほほをくしゃくしゃにしながら長鼻の男を出迎えた。
「HHッ!!君の鼻はまるでユニコーンの角みたいだなあ!」
ピユがさも心を打たれたとでもいうように胸を押さえたから長鼻男は得意になって鼻を鳴らした。
「そうですか!光栄です!たいちょー!」
しかし、ピユは冷や汗をかきながら手のひらを聴診器のようにして胸のあちこちをまさぐっている。
「どうしたんですか?」
長鼻男が異変に気が付いて身をかがめながらピユを気遣う。
「ま、まずいぞ。心臓が私の手から逃げていく。あ、こらそっちへ行くな。そっちは背中だぞ!」
お腹のあたりを触っていたピユの無限の0本指は身体を這う虫でも追うみたいに背中へと回った。ピユの手が追いかけているのは彼の言う通り心臓だった。逃げる心臓。洞窟を通って以降、僕の身体は本当にへんてこりんになってしまった!
「たいちょー。心臓なんてほっとけばまた胸に戻ってきますよ。それより、女王様がいないんです。狼君の入隊式が開けません。」
ピユの手は股を潜って足と絡まった。ピユは身体をもつれた糸玉のようにしながら苦しそうに返事をした。
「き、きみねえ。心臓が胸にいないと本当に気持ち悪くて苦しくって辛いんだぞ!他人ごとだと思っているな君!田中ぁ!二等兵に降格!」
「ええー!」
二人のやり取りはなんというのか大げさで演技臭いものに僕は思われた。通行人が二人の言い合いを見かねてやってきた。「まあまあ、隊長。ここは許してやってください!」
ドレスシィ城下の人々はなぜかピユが警備隊長だということを受け入れている。僕が感じたその違和感を「HHHHHッ」というピユの母音のない、肺そのものが笑っているような笑い方がごまかしてしまった。
”第2章
暗がりはまるで巨大な磁石のようだ。猫背の少年は背骨が鉄でできているみたいに暗がりが深まる方へと後ろ向きに引かれていった。熱くはないが壁が汗をかいている。そんな、壁が結んだ雫を種として草花が生えてきてその鈴のような花が放つ青白い光が水たまりに映えている。少年は自分のくるぶしがその水たまりに浸かるのを感じるとふいに前のめりに倒れた。少年が起こした波で水たまりが捲れて、黄色い蜜のようなカラーパが露出した。少年はまるで、子供が寝返りを打って掛布団を身に巻き付けるように水たまりをゴロゴロとし始めた。そして、水たまりは少年をすっかりと飲み込んだ。少年はすべてを受け入れ沈んだまま眠った。その姿はまるでガラスに閉じ込められた人形のようだった。水たまりを苔がびっしりと縁どって、動物の毛みたいに揺らいだ。雫が壁を滑って、鈴のような青白い花が少年へと落ちた。”
このドレスシィ城下の街にはいたるところに浮かぶ本があった。それは、カラーパのようにその場から揺るがない。しかし、風が吹いたり指で触られたりするとページが捲られていくのだ。本を読むときだけはピユは僕に身体を返してくれた。本を閉じると、長鼻男が言った。
「たいちょー!本が好きなんですね!でも、急いでもらわないと困りますよ!」
「HHッ!私は本は大嫌いだよ!本はね、檻だよ。魂を閉じ込めるための檻なのさ!」
生ぬるい風が吹いた。まるで、ドレスシィ城のため息だった。僕も含めて街の人たちは皆ドレスシィ城を気遣うように城を見上げた。
ドレスシィ城はまるで、空の主だった。その時の空には雲も鳥もいなくて、空に触れられるのは城の尖った三角屋根だけだった。城の屋根ではためく無地の旗が獣をあやすように空を撫でている。
空には虹に鞭うたれたようなカラフルな傷がいくつもあってそれが時折ひくひくと痙攣している。
冥鳴りがした。物質を構成する最小の存在が一斉に「ド」の音を歌い出したみたいな力強い音だった。僕もピユも田中も街の人たちもサーヤも狼もそして、ドレスシィ城も世界の裏側のありとあらゆる存在も耳のないものも死者たちもみなこの音を聞いている。そんな確信が僕の心に満ちていく。力強い「ド」の冥鳴りはドレスシィ城に引け目を感じていた僕たちの心を勇気づける。この世で唯一、平等で、普遍的な音。それが、冥鳴り。
冥鳴りが止んでから城を卑屈に見上げる者は一人もいなくなった。
ピユと長鼻男は城の門をくぐった。入ってすぐのところに、警備隊が訓練するための広場があった。
「たいちょぉ。あの狼へんですよぉ。なんか、災厄少女が街に来たせいでこの街がめちゃくちゃになるって言ってるんすよぉ」
サイズの合っていない鎧をガチャガチャ言わせながら僕の膝ぐらいしかない女の子の隊員がピユの前にやってきてそう報告した。広場では大狼が叫んでいる。
「みんな!気を付けろ!災厄少女がサーヤがこの城にやってきている!災いが起こるぞ!」
女の子がため息をつきながら深々と顔に傾いてきた兜を脱いだ。日の下に現れたその笑顔がサーヤ、あなたであることに気が付いて僕は心臓が胸を突き破るかと思った。と言っても今、心臓は太ももにあるのだが。
「HHッ!生きが良いねえ!あの狼は。調教次第では最強の隊員に化けるぞあれは!」
ピユがそう言いながら多面な一面腹を叩いた。すると、何重にも重なった太鼓の音が力強く広場にこだました。隊員たちは鎧をガチャガチャ言わせながらピユの前に整列した。タイルのピースを一枚ずつに一列に並ぶその様はまるでチェスのポーンみたいだ。
そして、敵陣のクイーンみたいに存在感のある駒が大狼だった。狼はこちらをぎろりとにらんだ。
「はやく、はやくワシを隊に入れろ!」
「もちろんだよ。友よ。だが、女王様がいらっしゃらないのだ!」
ピユはそう言って、無限のゼロ本指の手を大きく広げて見せた。
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