第21話
「どうしようか」
リンの姿がどこにも見えない。僕の目は灯台を見失った船のように泳ぎ続ける。ふいに、僕の首筋に冷たい点が捺されてそれと同時に潤いのあるきれいな音が鳴った。
「雨だ!」
僕の膝ぐらいしかないあなたがぶかぶかの袖を持ち上げて手のひらで雨粒を受けている。また、雨が一筋僕のつむじを押した。すると、やはり音が鳴る。まるで、僕の身体がピアノにでもなったみたいだ。雨粒は楽譜を確かめながら演奏しているみたいにぎこちなく僕を押していたけれど、それはだんだんとピアニストの指使いさながらになめらかに力強くなっていった。
僕の身体で奏でられるのは悲壮でありながら希望に満ちた楽曲だった。ひときわ大きな雨粒が僕の胸を押したとき、力強い音がして僕は思わず前に踏み出す。
「わあ!すごい!私がピアノになったみたいだ!」
あなたが水たまりを踏みながら両手を翼のように大きく広げて雨粒を受けている。体がピアノみたいになるこの現象はこの雨が引き起こす錯感であるということに僕は気が付く。
ピアニストが死んだ。突然の心臓発作だった。それくらい急な幕切れに僕の身体は物足りない。だが、曇り空は栓でも絞められたみたいに雫一つ落とさなくなった。
あなたが水たまりから足を引き抜く。僕はそこに波紋が広がる様をのぞき込む。波紋が力を失って対に消えた。そして、鏡のようになった水たまりに現れたのは何というのか化け物だった。
「うわあ!なんだこいつは!」
僕は尻もちを搗く。化け物の姿が僕の網膜に焼き付いている。だまし絵を見たときみたいな気持ち悪さが吐き気となって込み上げてきて僕は口を押えた。
「うええ」
僕の涎で汚れた指が五本のはずなのに無限にかさばって見える。
僕は網膜に焼き付いた化け物の像の答え合わせをしようと恐る恐る水たまりをのぞき込む。
真っ青な黄色い肌。境のない輪郭。まっすぐな巻き毛。尖った丸顔。一重な二重。透明な瞼。多面な一面おでこ。一桁の千本髪。
矛盾が形をとって現れたようなこの世に存在しえない顔だった。恐ろしくもあり間抜けでもあるその顔がにっこりと統一感なく笑った。
「うわあ!」
僕は再び尻もちを搗き、自分の顔を触った。僕の指は5本なのに無限本だった。僕の腹は背中でもあった。僕の腕は一本の両腕だった。僕の足は四足の二足歩行だった。
まるで、僕はだまし絵みたいな姿になってしまった。
自分の姿に打ち震えていると背後から爆発音がした。地面の裂け目から山のように大きな狼が現れた。狼は口から火を吐きながら言った。
「災厄はどこだ。災厄少女を殺す。」
それは、白い毬玉だった。姿こそ巨躯の狼に代わっているが腹にある三日月型の欠けがその証拠だ。
「おいおいあんた。困るよ。ドレスシィをめちゃくちゃにする気かい?」
男が枝のような長鼻を地面で引きずりながら毬玉に、三日月の狼に抗議した。狼はぎろりと男を見下ろした。その様は、まるで月が落ちて来るような迫力だった。
「お前は誰だ!」
三日月狼が睨んでいるのは長鼻男ではなかった。
「怪しいな。その姿。お前、洞窟を潜ったばかりじゃないか?」
狼の風のような鼻息が僕のまっすぐな巻き毛を激しく引っ張る。
「HJJJJJJJJYYYYYYYY」
僕は笑った。それは、一切の母音がない笑い声だった。
「私かい?HHHHHHH。私はこの城のそう、警備隊長だよ。」
僕はそう言って自信満々に透明な瞼で瞬きしてみせた。反応を示したのは狼ではなく長鼻の男だった。
「ええ!あなたが!?あなたが隊長だったんですか?この城の警備隊長はずっと行方不明だったんですよ。今までどこにいたんですか?」
「HYRTWKLSZXMMMMMM。ずっと厨房で働いていたんだよ。私はコックでもあるからね。」
「笑い方汚な!」
長鼻の男はそう言ってからお辞儀をした。
「ですが、あなたのその胸の印。それこそが、警備隊長である証です。よくぞお戻りに」
「ああ。当然だ。」
狼は落ちてくる月のように僕たちを見下ろしている。
「で、お前の名前は何だ。」狼が重たい声でそう尋ねた。
「ピユです」
僕は、ピユはそう言いながらお辞儀をした。
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