第18話
僕とサーヤと人魚の女はまるで腕時計を見せびらかせながら歩いているみたいに丘へと向かった。実際、僕たちが進行方向に差し出す腕にあるのは腕時計でも腕輪でもなく目だった。さっきまで夜の残党たるわずかな酸味が残されていたのだが、勢いを増す朝の光がそれらをすべて丘陵地帯から追い出してしまった。腕に開いた目には瞼がなかったから、僕たちは左手を庇にして腕の目を明るさから庇った。
ついに、僕たちは丘までやってきた。丘のふもとを踏んだ時、さっきまで丘の中腹から空へと聳えていた塔が消えた。僕たち三人皆が腕の目を塞いでしまっていないかと確認したがそんなことはなかった。
「とりあえず登ってみよう。」
その僕のセリフの「の」の一文字が首でも絞められたみたいに高くかすれて僕は思わず喉を押さえた。その音はあまりにも間抜けに響いたから僕は顔が赤くなるのを感じたが、人魚の女は気にも留めずに丘を登りだす。その後ろをついていくサーヤの耳がなぜか僕よりも赤くなっている。
一歩二歩と丘を踏むたびに僕の足は地面に沈むようだった。まるで、果汁のしみ込んだスポンジを舌で押しているみたいに甘いような酸っぱい味が足の裏で感じた。その時だった。僕の目の前を歩いていたサーヤが前のめりに倒れた。とっさに彼女を支えようとした僕は足をゴムのようにぐねんと痛みもなくひねってしまった。
くすくすとサーヤがこそばゆそうに笑っている。僕はサーヤの無事を確かめてから捻った足を見る。
「うわあ」
また、僕の声がおかしくなった。驚きの声の「わ」の部分が岩かなんかの唸り声みたいに低くなったのだ。逆に、最後の「あ」の部分は空から釣られているみたいに高くなる。まるで、僕の喉にある五線譜を誰かがいじって遊んでいるみたいなそんな感じだ。
だが、今はそんなことは気にならない。何と言ったって、僕の足首が縄みたいによじれているではないか。こんな目にあったら人の足首は骨は折れ靭帯は千切れ血は止まらなくなるに違いない。しかし、痛みはない。だから僕は、絡まった紐をほどくみたいに自分の足を元の方向に回してみることにした。すると、僕の手に触れられた足首はまるで舌のように弾みよくうねりあっけなく元の方向に戻ってしまった。
「気を付けて、この丘もパンニアだ。」
人魚の女がそう言いながら匍匐前進で丘を登っていく。サーヤもそれに倣って匍匐前進で進んでいく。僕は、何度か立ち上がろうとしたけどそのたびに痛みもなく足をひねって倒れてしまう。ひねった時に足が蹴った丘から果汁のような味がしみだしてきて、やはり足を甘くする。まるで、僕の両足に味蕾がいくつも生えたみたいに。そして、足から膝までの骨が抜かれたみたいに僕の足はやわらかくなった。
パンニア(錯感物)。それは、生物に錯感を生じさせる事象のことだ。錯感とは、人間のある感覚器官または身体の一部が本来の機能を失い別の感覚器官または別の身体の一部を得る現象のことだ。例えば、パンニアである光を浴びて腕に目が生えるとか、ある音を聞くと毛穴が見たいな耳の穴が全身に空いて音が肌で聞こえて来るとか ある風を浴びると目に鼻の穴が空いて息と香りを据えるようになるとかそういう現象だ。
つまり、僕の足は丘の影響力から脱するまでの間ずっとベロになったままだ。だから、僕は腹と胸を地面につけてこの丘を登らなければならない。不意に、丘が振動し僕の腹を殴った。僕は口の中の舌を噛んでしまった身もだえした。
「ゴゴゴォォォォ!ゴゴゴォォォォ!」
咳がした。丘の、大地の咳だ。
果たして人間にこのような咳をする者がいるだろうか。死にかけの巨人ですら、これほど重たく暗く痛々しい咳をださないだろう。
そんな咳を追いかけるように丘の中腹に再び咳切虫が連ねるひし形の塔が現れた。まるでそれは、冥府の離れ塔だった。
僕たちは、揺れに耐えながらとうとう丘の中腹まで至る。丘がせき込むときの揺れに腹と胸を殴られ続けて僕の呼吸は今にも切れそうだ。
丘の中腹が巨大なナイフか何かで刺されたみたいな痛々しい裂け目があって、あたりの草や岩は暗い血で染まっている。おぞましい光景。やり場を失った僕の恐れは丘に対する憐憫に転じて、それはさらにある疑問へと転じた。僕は顔を歪めながら尋ねる。
「ねえ、喋れもしないし心もないのにどうして丘が嘘をつけるんだ?あの本に書いていることはでたらめじゃないのか?これは罰でも何でもなくてただの自然現象……」
「あの本は」
人魚の女が僕の声に被せるようにそう言って、そして続ける。
「あの本は真実です。それよりも、次の咳が終わったら穴の中に飛び込みますよ。」
僕はごくりとつばを飲んだ。そんな僕の手をサーヤが握ってくれる。半透明なひし形の塔が波に飲まれた砂上の楼閣みたいに跡形もなく消える。その時、耳の警戒心を裏切って僕に聞こえてくるのは光が転寝しているみたいな暖かくて柔らかい音。冥鳴りだ。今、僕もサーヤも人魚の女もこの丘もそして僕たちを追っている白い毬玉も街の人たちもあったことのないすべての者たちがこの音を聞いている。僕たちはここに居る。世界から今、ここに居ることが許されている。そんな確信に胸が満たされて、僕はサーヤを力強く見つめる。サーヤもこちらを見つめ返してにっこりとほほ笑む。風が穴から突き上げてきて彼女の髪を持ち上げる。人魚の女が僕の背中を叩いて、穴の舌に滑るように下っていった。僕とサーヤもそれを追って穴の深淵へと落ちていく。
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