第11話
地面と水平に伸びたハスの人差し指を想像力で伸ばしていって最初に突き当たったのは人魚の少女リンだった。リンは僕たちと目が合って石のように固くなった。ただ、彼女の胸と手だけは本を庇うように抱いている。
ハスがこぶしを振り上げながら磁石の片割れみたいにリンに迫った。彼女は頭を抱えてその場にうずくまる。
「いやあああぁぁぁ!」
悲鳴の予言を裏切ってハスのこぶしを受けたのは僕の背中だった。「大丈夫?」と僕はリンの肩を抱き寄せる。すると、リンは僕の下あごに頭突きをくらわして僕の保護から逃れる。
「触らないで!人殺し!」
彼女の言葉が僕の傷ついた舌に追い打ちをかける。人殺しの「し」の音が僕の口から喉の方へと落ちていき詰まった。まるで、喉に耳の穴でも開いたみたいに「し」という音が無限に聞こえ続け喉を詰まらせる。
僕は喉を押さえて地べたに横倒れになった。息ができないのだ。肺の呼気も吸気も全部喉に詰まった「し」という音に遮られている。
僕の顔が不健康に赤くなっていくのにハスが気が付いて「大丈夫か?」と僕を揺すった。僕が喉を押さえながら首を横に振ると「何か詰まっているんだな?」とハスは腰からナイフを抜いた。ナイフの鋭い切っ先がきらりと閃いてこれから僕がされることを告げているみたいだ。でも、ハスがやろうとする荒療治を止めようという気力も余裕も今の僕にはなかった。
僕はハスにされるがままに仰向けになって口を大きく開いた。ハスは呪いで幼子のように細い手を僕の口から喉へと差し入れる。
「うわ。なんか固くてうるさいものがあるぞ」
ハスはそう言って僕の喉から手を引っこ抜くと涎だらけの手のひらにナイフを握りしめた。
「ちょっと我慢しろよ。」
ハスはナイフで僕の口とその奥の喉を一突きした。ガギンと固い音がして、のどに詰まっている「し」という音が濁って「じじじじじじじじじ」と壊れた岩みたいな音に変わった。ハスがナイフを引き抜くと「じ」という音も僕の喉から口の外へと出ていった。
僕の口から引き抜かれたハスのナイフの先には何も見えない。ただ「じじじじじじ」という壊れた岩みたいな音がナイフで串刺しにされているだけだ。
僕は息を大きく吸い込んだ。肺がろっ骨を折りそうなほど大きく膨らんで酸素が弾丸のように脳へと供給される。ようやく体の重要な部分に酸素が届き始めたころ、肺が不可の限界を迎えて咳が止まらなくなった。そんな咳を咳切虫が半透明なひし形を作りながら食べていく。咳切虫が結ぶひし形の数でで僕の姿が見えなくなるぐらい酷い咳だった。
「ゲホゲホ」とつまりが解けたばかりの喉を傷つけながら僕は何とか起き上がった。
「なあ、そろそろおれ元の姿に戻りたいな」
ハスが小さな手でナイフを一振りするとその切っ先から「じじじじじじじ」という音がすっぽ抜けて路肩に転がった。「じ」の音は死にかけのセミみたいに「じじじぃぃぃぃ」としりすぼみになって消えた。
僕は乱れた息を腕で拭ってからつばを飲み込み傷ついた喉を癒す。そして、落ち着いてから僕はハスに尋ねた。
「そもそも、なんで君はそんなに小さくなったんだい?」
ハスはポケットをまさぐって飴玉を一つ取り出した。手のひらの上のその飴玉は涙の粒みたいに小さい。
「これだよ。これを列車の中で兵隊にもらったんだ。飴玉を口の中で転がしてたら見る見るうちに俺の身体が小さくなってしまったんだ。」
僕はハスの言葉にビンタをくらわすみたいに手を横に振って抗議した。
「はあ?お前、列車の中では小さくなったことに理由なんてないって言ってたじゃんか?理由があるなら、あの時なんで言ってくれなかったんだ?」
「はあ」というため息がハスの口から零れて地面の下に沈んでいった。
「あのねえ、お前じゃ理解できないことなんだよこれは。いちいち説明するのもめんどくさいし」
ハスはそう言ってあの難解な数学書を開いてゲラゲラ笑いだした。
なんだか僕はハスから神秘のヴェールが剥げてしまった感じがしてがっかりした。やっぱりハスはただの狂人なのかもしれない。
ハスは数学書のページをめくりながら僕に言った。「まあ、ぐふふ。とりあえず俺は、この飴玉を大きくして元の姿に、はははっ、戻ることにする。砂糖だ。砂糖で飴玉を転がそう。クックック。厨房に行ってくるよ」
フハハハハ!と爆笑しながらハスは僕に背を向けた。なんだかその背中が僕には滑稽に見えた。彼は路肩に腰を下ろしてナイフを拾い上げた。それを腰にしまった彼がふいに上を向いた。彼の視線を辿った先にはカラーパがあった。それは、青空に出来物みたいに煌めく星型の赤だった。
「おい」
ハスが振り向きもせず僕に呼び掛けて来る。その声はナイフのように僕の喉元まで迫ってくるようだった。僕が息をのむとハスが続ける。
「災厄少女は必ず殺す。それが、俺とお前の責務だ。みらび、ダイヤの枝が生えるみや」
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