第9話

 その建物には顔がなかった。ドアも窓もレンガの継ぎ目すらもない。まるで、神様が絵筆で塗りつぶしたみたいな灰色の建物。そんな、顔のない建物の前を一匹の野ウサギが通り過ぎた。サーヤとリンだけがそのウサギを目で追った。ハスと毬玉と老人は僕に矢のような目配せをする。僕は固くうなずいて、顔のない建物の中に入っていった。入ったというより横に沈んだという方が正しいかもしれない。

 僕は顔のない建物の中で息をひそめた。野ウサギを見失ったサーヤとリンが再びこちらに視線を戻す。

 「あれ?どこにいったの?」

 サーヤがそう言ってあたりを見回す。

 「だれが?」

 ハスがにやりと尋ねた。すると、サーヤは首をかしげながら苦しそうに唸りだす。

 「ほら、あの子だよ。あの子。」

 「あの子って誰だよ?名前も知らない奴なんかどうでもいいじゃないか」

 僕のズキリとした胸の痛みを肺が息もろとも押し殺す。

 「さあ、この建物に入るんだ。」

 ハスがサーヤの手を引いたがサーヤは首を横に振りながらそれを拒否し、何かをつぶやき胸に手を置く。しかし、その呟きは彼女の唇を受肉した空間の腫れに閉じ込められて聞こえてこない。

 「会話が途切れるとイライラしちゃうなあ。まあ、これも最後だよ。」

 ハスがそう言いながら腰の後ろに手を回した時だった。さっきの野ウサギがサーヤの前にやってきて首を右にかしげたんだ。そしたら、その野ウサギの後ろで三面鏡でも開いたみたいに野ウサギの数は九匹に分身した。

 「すごい。96ウサギだ!」

 そう感嘆の声を漏らしたのはリンだった。リンの声にこたえるように96ウサギは首を左に傾げた。すると、見えない三面鏡を畳んだみたいにウサギの数が3匹減って6匹になった。

 6匹の野ウサギが僕が隠れている顔のない建物の中に入り込み僕を通り過ぎていった。

 「いまだ!殺せ!呪いの子を!」

 そう号令したのは老人だった。雷に脅されているみたいに僕は腰からナイフを取り出した。それは、鳥の嘴を刃とした鋭利なナイフだった。

 サーヤが野ウサギを追いかけてこちらに来ようとするのを毬玉が掴んで引き留める。そして、ハスが「ゴギゴァァァァァァアアアアア!!!」と裂けた暗闇みたいな叫び声をあげながらサーヤの背中にナイフを突き立てた。その力があまりにも強くてサーヤの傷ついた身体は毬玉の拘束から千切れて、前のめりにつまり僕が潜んでいる顔のない建物の中に倒れた。

 僕はナイフを手に握ったまま凍り付く。 

「とどめを刺せ!」

 ハスの砲丸みたいな叫びでも僕の手の凍り付きを壊すことができない。

 サーヤの背中の傷口から噴き出してきたのは血ではなかった。それは、”声”だった。高い声も低い声も甘い声も苦い声も大きいのも小さいのも透明なのも汚いのも、すべて混じった万人の声がサーヤの傷口から噴き出してナイフを彼女の背中から噴き飛ばした。

 「あいわほじょがじょがほえうじょがういおだじょでゃおうじょうだほうじょだほうあじょうほがじょえうおがおさじょじょがほだいぇわぱぞあじょがじょえぱだおだいたおわおがおわじゅがぺんがのじょだおわざえいわぱまなにぬをあきぃえるらくぃうぃえおいさじょじょがようじょじえかおじょじぱんじょだしきじゅぢよじゃざまかいかじゃわるえいぁぱぃてつじぇおぱけをヴぁくわきうをけこふぐできえあばがじょだじゃほがじょかききうがおだうおあじょあjドアホギア所j田尾の意がひょいjc字おジェイうくぉいwmくぉんヴァイオ日宇dの員添えぢ亜氷魚おえいのあもzのいひじぇいいぐああもdhふあいひんzにおうhふぁいなgんぢじゃにあいgじゃまへういうtなんzふいygはういおひえwじゃいyちいうえいやいmずじょうだおのjがおわもがもがもjどあうのぐあjぱじゃのうあ」

 声は噴火のように街の空を貫き、津波のように建物を倒し街の人々を飲み込み始めた。地面は裂け空は割れ街は歪み始める。

 刃物で口から耳を貫かれたみたいに僕の聴覚は壊れてしまった。もうおわりだ。街は災厄によって滅びるんだ。千年も守られてきた責務を僕が果たせなかったせいだ。自責の念に追われる僕の心はこのまますべてが滅びることを望み始める。

 その時、奇跡が起こった。

 世界から音が死んだ。火が水を飛ばすみたいに水が色を落とすみたいに、世界から音だけがいなくなった。

 無音の冥鳴り。

 僕の耳が聞こえなくなったわけではない。それどころかこの無音は僕の傷ついた耳を癒した。

 何かが僕のくるぶしを掴んだ。それはサーヤの手だった。彼女は俯いたまま泣いているみたいに震えている。彼女が顔をあげる前に、僕はナイフを彼女に刺し降ろした。

 無音の冥鳴りが止んだ。僕が最初に聞いたのは頭蓋骨が砕ける音と血肉の悲鳴だった。

 心臓が止まったみたいに体が冷たい。重くなった体温が汗のように僕の体中から抜け落ちていく。

 今はただ、サーヤの血だけが僕の手を温めるだけだ。僕は彼女の血を保温クリームみたいに頬に塗りたくった。それでも、まだ寒い。とうとう僕は、彼女の遺体を着た。猛吹雪に囚われたみたいに僕は彼女の遺体を深く着込んで小刻みに震えている。彼女の温かい血が僕の全身を少しずつ温め始めたその時だった。

 声がした。それは、空間に浮かぶ唇の形の腫れから聞こえてくる。

 「でもね、あの子は彼はわたしにとって大切だから。198,199,200,201……今でも数えている。ずっとずっと数えている」

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