第3話
「え、えっとそうですね……」
内気そうな女の子の声が後ろの部屋から聞こえてきて、人魚のリンが二の腕のうろこを爪繰りながら視線を車内に彷徨わせている。リンの視線は振り子のような軌道で床を這い車窓の高さまで上がって止まった。僕もリンの視線を追いかけるように車窓の外を見た。
闇を重ねたような夜を列車が恐ろしいスピードで脱ぎ去りながら崖を抜けた。月の出ない真っ暗な闇に何を見出したのか、リンは口を開きそして空気にキスした。唇の赤色を受肉した空間がやはり列車の慣性に見捨てられ後ろの部屋へと去っていった。
「あなたの名前はXXX」
リンの声が遅れてそう聞こえてきた。その時だった。僕の隣で毬玉のお腹に埋もれていたサーヤがいきなり咳き込んでうずくまった。僕はサーヤの背をさすった。背骨のごつごつとした触感が急に青白い光を帯びだして室内をほの明るくした。まるで今宵、月がいないのはサーヤが食べてしまったからだとでもいうように、サーヤの体内は清輝を閉じ込めきれないでいる。
咳切虫。それは普段空気のように空間を満たしている見えない虫だ。誰かが咳をした時初めてそれは形を得て人々の視界に姿を現す。その時、床で分散したサーヤの咳を追いかけて咳切虫はひし形の連なりを八方に伸ばした。サーヤの体内から漏れる静かな光も相まって車内は幻想的な幾何学模様に飾られる。しかし、それはサーヤが咳き込むのをやめると同時に止んだ。
「あれ?どうしてだろう?XXXってあなたに名前を付けたはずなのに。どうしても、あなたを呼ぶことができない。」
リンはまるで喘息発作みたいにそう狼狽えている。
サーヤは僕に支えられて起き上がり腕で口を拭ってから空間を噛んだ。歯型に千切れた空間から血の雫と一緒にサーヤの声が零れる。
「この子はね、誰も名前を呼ぶことができないんだ。もちろん、名前を付けることもできない。」
リンは口を開いた後、胸を押さえてうずくまった。リンの胸から本が一冊転げ落ちるとリンの声が遅れて室内に届く。
「そ、そんな。そんなはずはないのに。あ、ありえないよ」
いつの間にかリンの膝の上から脱していたハスがきめ細かい肌に似合わない意地悪さでニヤニヤしている。
僕は足元から本を拾い上げた。すると、リンが急に身を起こして僕から本を奪い返した。その勢いが激しくてリンの長い髪の毛が僕の目に刺さるほどだった。
「これ君の本?」
タイミングを逸した僕の疑問が室内に響く。僕は目を押さえてうずくまっている。リンはいたたまれなくなったのかそそくさと車室を出て行ってしまった。
「いったあ」という僕の間抜けな声が遅れて室内に響いた。
列車の進行がひと際分厚い闇を脱いで、ついに星が夜空に現れた。その星は針のように鋭い光で僕たちの肌を刺すようだった。その針には毒が塗られていて、眠ることすら許さない苦味が僕たちの骨まで苛める。
”味星”それは、光とともに味を放つ星だ。甘味星や美味星の夜には料理がいつもの何倍も美味しくて幸せな眠りにつけるのに、今夜は運悪く苦味星の夜だった。
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