第2話

 まるで、寝室のとばりを開けたみたいな気まずさを僕は感じた。ドアを横滑りさせて現れた光景は毬玉のお腹に子供みたいに抱かれるサーヤの姿だった。僕が向かいに座ってもサーヤは毬玉のお腹のお肉に顔をうずめたまま起き上がらない。毬玉が室内の空気を全部飲み干すように口をすぼめた。実際、車室の暗がりに帷みたいな皺が出来てその皺に沿って血が幾筋か毬玉に吸われていく。

 毬玉。彼はハスの相棒。性別はわからない。巨人の毬みたいに大きな球体で、三日月みたいに腹が抉れている。なんでこんな球体にドングリの虫食い穴みたいな目鼻口が開いていて人のように喋れているのかはわからない。だが、彼は僕たちの仲間であり僕とハスの仕事仲間だった。

 毬玉が車室の血管から血をすべて吸い終わったころ、後ろの部屋から毬玉の声が遅れて聞こえてくる。

 「ハスは落ち着いたかい?」

 空間に受肉された声が、慣性の恩恵を受けることもできずに線路の上へと取り残されていった。

 僕は唇を閉じて「んー」と鼻を鳴らした。鼻を鳴らす程度のことすら世界から速度を取り上げられて、すぐには伝わらない。

 その時だった。ガチャガチャと鎧を固く鳴らしながら8人の兵士が僕たちの部屋の前を通り過ぎていった。その兵士の列の尻尾に当たる部分にいた三人が僕たちの部屋を見るや、おいおいと泣き出したではないか。今まで毬玉の三日月型の腹で休んでいたサーヤが顔をあげて立ち上がり兵士の震える肩に優しく手を置いた。

 サーヤが窓枠に囲われた空間にキスをした。そうして空間に受肉されたハート形の腫れがやはり列車の慣性に見捨てられ後ろへと流れていく。しばらくしたあと列車の最後尾からサーヤの慰めが聞こえてくる。

 「どうしたの?兵士さん?」

 ”受肉”それも、今思えば不思議な現象だ。今、列車が崖に入った。車窓の外では風が自ら傷つき血を流し奈落が病気っぽく咳き込んでいる。空間には血脈が通い、大地は神経痛に悩み、闇は骨に支えられている。無は生きていた。風から生まれた僕だから、そんなことは当たり前だと思っていたけどいざ兵士たちの鳴き声に濡れてふやけた空間が廊下の後ろへ捌けていくのを見送っているとそれが異常なことのように思われた。まるで、文字をずっと見続けていたらそれがバラバラに壊れて感じるのと同じだった。

 「吾輩たちは、本当は10人いたのであります。それなのに、今は八人しかいない。それが辛くて悲しくて」

 列車の後ろから兵士のサーヤに対する返答がいまさら聞こえてくる。サーヤはその兵士の兜をよしよししてあげる。すると、兵士は母親に甘えるみたいにサーヤに抱き着いた。なんだか胸にささくれでもできたみたいにチクリとした。

 ふいに、冥鳴りがした。まるで、宇宙が一本のピアノ線でそれを神様が爪弾いたみたいな縦揺れの音だった。自分がそして、世界が音そのものという感覚。美しさとの一体化。そんな、甘美な時間が終わった後に「あなたは、23回目だよ」と空間の唇型の腫れからサーヤの声がした。また、あの数字だった。サーヤがこの謎の数字を誰かに授けているのを見るたびに、僕の心は暗くなりそれと同時に暖かくもなった。

 なんだか苦い冷たさが窓の隙間から車内に吹き込んできた。兵士たちは急に慌てだし列車の最後尾へと走っていった。

 兵士たちを失った廊下にまた別の誰かがやってきた。それは、僕の膝ぐらいしかない子供だった。その子供の後ろ暗がりから影が伸びてきてその子を抱き上げた。抱き上げられたその子は幼さに似合わない不敵な笑みでサーヤに尋ねた。「なあ、サーヤ。俺は今いくつだ?」

 サーヤはその幼子の顔をまじまじと観察したあと、驚いたように口を開けた。サーヤの口の形の赤い輪っかが列車の慣性に捨てられて流れ去っていく。そして、遅れてサーヤの声が後ろから聞こえてきた。「い、今は。173だよ。」

 

 とにもかくにも僕たちは車室に入ることにした。苦い焦げ臭ささを糸のように辿ると、車窓が擦り傷みたいに赤く血色に滲んでいて夕陽が焼き刃のようにそれを焼いている。夕空が火の拷問を受けているみたいに美しかった。そんな痛々しい眩さが断崖に隠れてあたりは真っ暗になる。いまはただ、焦げた肌のようなべとつく苦さが車内に残されるのみだ。


 「窓が少し開いているんじゃないか?今宵は苦味星だぞ。」

 そう、毬玉の声が後ろから聞こえるころにはすでにサーヤが窓を隙間なく締めきった。僕はサーヤの隣に座って、僕の向かいには人魚の女とそれに抱かれた幼子が座っている。

 僕は粘っこい空気の苦味を噛み潰した。そんな僕の歯型が空間を後ろにはけていってそして声を遅れて届ける。

 「なあ、ハス。どういうことなんだ?なんで小さくなった?それに、その人魚の方は誰なんだ?」


 ハスが幼子らしい丸みのある指で後ろの人魚を指さした。「こいつは、リンだ。さっき向こうで出会ったばっかりだ。で、俺が小さくなったのに対した理由はない。みらび、髑髏の首が折れたんだ」

 ハスの声は速度を奪われずに僕たちの耳に届いた。ハスの声はしぐさは眼差しはぬくもりは、その存在自体はたったの一度きりだった。それは、列車の車輪のように僕の耳を踏みつけて去っていく。普通、人の声は耳に記憶となってとどまって事あるごとに思い出すものだ。しかし、ハスの声は耳にとどまることがない。ハスの声が聞こえるたびに僕はハスの声を忘れた。何を言われたかという意味は覚えていても、ハスの声が持つ音色を決して思い出すことができないんだ。それは、ハスが話をしているその瞬間にしか感じることができない音だから。

 「髑髏の首が折れたことと君が小さくなったことと、リンのこと、いったい何の関係があるんだ?」

 昔の僕ならきっとそう尋ねていただろう。でも、今の僕はただ口をつぐんだ。そんなことを聞いても「なんでわからないんだ?」とハスが機嫌を損ねるだけだとわかっているから。

 ”みらび” ハスが使う謎の接続詞。きっと、髑髏の首が折れたことと今回のことはすべて”みらび”という接続詞で繋がっている。意味はさっぱり分からないけど、ハスの中ではそれが真実なんだと僕は思う。

 「あ、あの」

 遠慮がちな潤いのある声がした。僕はハスが連れてきた人魚にまだ挨拶もしていないのに気が付いて慌てて空気を噛んだ。空気が僕の歯型を受肉して、血と一緒に僕の声を室内に流した。

 「ごめんね。えっと、リンさん?初めまして。ぼ、ぼくは」

 ハスが身を乗り出して僕の声を遮った。

 「こいつはね、名前がないんだよ。リン。せっかくだから、名前を付けてやってくれよ。」

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