第4話 講義「大海嘯とダンジョン」
朝の8時半過ぎ、宗人は眠い目をこすりながらキャンパスを歩いていた。
大学は自分の興味のある講義を選んで受講できるけど、必修科目は取らないと卒業できない。必修科目は一限のことが多いから、早起きをしないといけない。
ダンジョン推薦の学生向けの必修科目「ダンジョン現代史」は月曜の一限に開講されているので、特に起きるのがつらい。
教室に入ると、後ろのほうの席は埋まっていたので、宗人は窓側の席に向かう。
「おうっ。」
近くに座っていた透士が気付いて声をかけてきたので隣に座った。
「おはようございます。それでは講義を始めます。」
教壇に立った教授は白髪まじりの初老の男性で、穏やかな雰囲気をまとっている。
「皆さんも知っているとおり、ダンジョンは大海嘯の後に各国で発見されました。 その意味では、ダンジョンは大海嘯と何らかの関係があると思われます。」
「大海嘯は今からちょうど10年前の2050年に起きました。海面が大きく上昇し、世界中の海岸を波が襲ったことは皆さんも知っているとおりです。
大海嘯は突然起きた災害ではなく、長い期間をかけて地球温暖化が進んだ結果生じたものです。化石燃料を燃やすことによって生じる二酸化炭素が平均気温を上昇させて、いずれ大惨事につながることは21世紀にも分かっていました。気候変動枠組み条約は1992年5月に国連総会で採択されています。2016年に結ばれたパリ協定では産業革命期の平均気温からの気温上昇を1.5度に抑制することが目標とされ、EUではガソリンエンジンの禁止も打ち出されました。」
「2022年にエジプトのシャルム・エル・シェイクで行われたCOP27会議では国連のグティエレス事務総長は危機感を露わにして、「人類は協力するか、滅びるかの選択を迫られている」と警告しました 。」
「しかし、人類は地球温暖化を止めることができなかった。協力して温暖化を止める必要があったのに各地で紛争が起きました。石炭や石油に関係する業界に支持されるポピュリストたちは温暖化など進んでいないと主張しました。」
おおまかな話は高校までの歴史の時間に聞いていたが、改めて話を聞くと、当時の政治家はまともに仕事をしなかったのかと思えてくる。
「海面上昇のリスクも警告されていました。WMO(世界気象機関)は2023年に報告書を公表し、パリ協定に掲げる1.5度の目標を達成しても今後2000年間で海面は約2~3メートル上昇し、2度以内では約2~6メートル、5度上昇すれば約19~22メートル上昇するという予測を発表しています 。ただし、これは長期の予測であり、この報告書では2100年までの海面上昇は2メートルに達しないと予測されていました。」
「実際には、海面上昇はこの報告書の予想より早く進みました。皆さんも知っているように森林は二酸化炭素を吸収しますが、旱魃が進んだ地域では大規模な山火事が続発し、アマゾンの熱帯雨林などは大規模な開発で失われ、急速に森は喪われました。さらに、シベリアやアラスカなどの永久凍土が溶けて放出されるメタンガスのもたらす温室効果が予測よりも大きかったのです。」
「その結果として、『終末の氷河』とも呼ばれて警戒されていた南極のスウェイツ氷河 が完全に崩壊したことを引き金にして南極西部の氷床が一気に溶け落ち、時を同じくしてグリーンランドの巨大氷床が溶融し、大海嘯が起きました。」
「大海嘯で海岸に近い低地は海に呑まれ、いくつかの島国は消滅し、国土が低地ばかりのオランダは壊滅的な打撃を受けました。日本も含め、沿岸部の大都市にも甚大な被害が生じたのは皆さんの知っているとおりです。世界の海面は7m上昇し、東京の東側は海没し、埼玉の春日部のあたりまで海は北上しました 。」
教授はふぅっと息を吐いた。
確かに溜息をつきたくなる話だなと宗人は思った。
「原料の輸送に便利な沿岸部に多い発電所も多くが失われました。温暖化の原因になった化石燃料を燃やす発電所の新設には反対運動が起きて、途方に暮れていたところにダンジョンが現れました。アメリカの大学の調査隊がダンジョンに入ったところ、不思議なことに学生と若い研究者だけが入ることができ、そして魔物に遭遇します。」
「ダンジョンの魔物は人間を見ると襲いかかってくるので危険ですが、倒すとマナストーンを落としました。そしてマナストーンを触媒にすると常温核融合発電が可能になることが分かり、人類はクリーンなエネルギーを得ることができました。ちなみにマナストーンを使った常温核融合の方法を発表した研究者は突然閃いたと言っていますし、マナストーンは人類を救うためにもたらされたのではないかと言う説もあります。」
「今ではマナストーンは人類の生存にとって非常に重要な物質になりました。それなのに軍隊や政府の職員はダンジョンに入れず、18歳から24歳までの自分の意志でダンジョンに入ろうとする人しかダンジョンは受け入れません。このため、大学や地域のダンジョンクラブの役割は大きくなっています。」
「ダンジョンに入る若者は探索者と呼ばれるようになりました。本学でもダンジョン推薦の学生やダンジョン部が活躍していますね。自分たちの世代が大海嘯を止められなかったのに、若い世代に危険をおかしてもらうしかないことは、私個人としても忸怩たる思いがあります。」
教授は眼鏡を外して溜息をついた。
「ダンジョンは海に沈んだ都市の近くで多く発見されていますが、その規模は様々です。そしてダンジョンの深い階層ほど強い魔物が出て、強い魔物ほど良質のマナストーンを落とすことが分かっています。これは深い層ほどマナの濃度が濃いためではないかと推測されています。良質のマナストーンを得ようとすれば、危険なダンジョンの深層に潜る必要があります。」
「ダンジョンである程度魔物を倒すと探索者はジョブを獲得します。そしてジョブによって近接戦闘のスキルや魔法のスキルが得られるようになります。ダンジョンの魔物にはスライムやゴブリンなど小説やゲームで馴染みのある種族が多いこととあわせて、ダンジョンは小説やゲームなどのファンタジー世界の設定をなぞっているように見えます。そして、レベルが分かることで自分の実力に見合ったダンジョン攻略ができますので、無理な攻略で命を落とすリスクは低下しています。このことからダンジョンは人類への試練であるが、人類を助ける存在であると考える研究者もいます。」
「ダンジョンで獲得された魔法などのスキルは地上では使えません。これはダンジョン内に充ちているマナが地上には無いあるいは薄いせいではないかと推測されています。一方、ダンジョンでレベルが上がることに伴い向上した身体能力は地上でも変わらないことが確認されています。」
「探索者の協力を得てMRI などで検査した結果、体の構造は一般の人と変わらないことは分かっています。探索者は病気に罹りにくいと言われていますが、まだ長期のデータがありませんので、一般の人より健康なのか、長生きなのかどうかなどは分かっていません。」
分かっていないことだらけだが、探索者については宗人が思っていたよりもいろいろ調査や分析がされていることが分かった。
もし探索者の体の構造が変わっていたら別の生き物みたいなので、そうではなかったことに宗人はほっとした。
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