鈍色
「私が行くよ」
珍しく高校から早く帰ってきた亜紀は、父が傘を忘れたらしい、と母から聞いてすぐに届ける役目を引き受けた。
「そろそろ父親離れしたら?」
台所から呆れ気味に口にしてくる母の言葉をおおいに不快に感じつつも、まだまだ子供だから、と不得意な愛想笑いでごまかし玄関へと急ぐ。日に日に邪魔だな、という母親に対する感情が亜紀の中で強まっていたが、排除する理由も方法もない以上、我慢しなくてはならない、と小さくため息を吐いた。
足早に向かえば、作業場の屋根の下で困った顔をした父をみつけた。
「ぴっちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん」
思わず漏れる歌は、いつになく弾んでいる。
「亜紀」
意外そうな父の顔に、悪戯が成功したみたいな気持ちになって、口の端がにやけた。
「迎えに来たよ」
また、二人きりだ。
二人で大きな傘の下におさまりながら、身体を寄せ抱き着く。
「亜紀……」
抗議するような目。だからといって、嫌がってはいない、と亜紀は理解している。
「離さないよ」
ニッコリと告げれば、すぐさま引き下がる父。可愛らしい、と思う。
「亜紀、今何歳だっけ?」
「十七歳だよ。忘れたの」
頬を膨らませてみるものの、本気で覚えていないわけではないと、亜紀も理解している。案の定、たしかめただけだ、応じた父は、もうすぐ、と呟いた。
「成人しても、私、お父さんの子供だし。いつまでも、いつまでもね」
またもや先回りしてみせる。
途端に呆れたような顔をする父は、やはり、ちっとも嫌がっていなかった。途端に、もう一声、という欲望が亜紀の中で湧きあがる。
「お父さん」
「なんだよ」
「今日もお疲れ?」
「そりゃあな」
やりとりから、ほのかに滲む疲れを感じとった。そうだよね、と応じながら、今日は無理を言わない方がいいと、判断する。
「けど、夕飯前の腹ごなしくらいはしとかないとな」
そこに亜紀の心を読みとったような言葉。わかられている、ということが歓びを深める。
「そうだね。腹ごなしは、しないとね」
「そうそう。その方が美味しくなるしな」
腕により力を込めて密着する。自分のために働いてきてくれた父の汗の匂いとごつごつとした体が心地よかった。
「見て見て、あれ」
指さした先には、鬼灯の生えた土手がある。
「久々だな」
「うん。綺麗だね」
鈍色の空が。あの日と同じ天気なのも、亜紀の中にある感動を深めた。
「おいしいの間違いじゃないか」
からかうような物言いの意味が、一瞬だけ、なんのことかわからなかったが、すぐに思い出し、
「……あの時は子供だったんだよ」
そっぽを向いて見せた。今も子供だけど、と心の中で付け加えながら。
「おぼえてたんだな」
「当たり前だよ」
ちょっとだけ忘れてたけど、と内心を隠しつつ、より大きく寄りかかってみせる。
「お父さんとのことは、全部、覚えてる。生まれた時から、ずっとね」
実際、最古の記憶は、赤ん坊の頃の薄ぼんやりとした父のシルエット。これが本当に一番古いものか確かめようがないし、そもそも、赤子の時の記憶なのかすらおぼつかなかったが、きっとそうだろう、と亜紀は信じていた。
そのまま立ち止まったまま、景色を眺める。父の温かさと大きさを感じながら、亜紀は離れたくないな、と思った。
「私ね、雨の日って大好き」
「俺が休みになることが多いからか」
「昔のことは忘れてよ」
たしかにそれもあるけど、と内心で頷いたあと、
「相合傘ができるから」
心から微笑む。父は照れくさそうに、
「二本持ってきた方がいいだろ」
情緒を解さないことを口にする。わかってないなぁ、と応じつつも、実のところわかっている父に悪戯っぽい目線を送った。
「なくても、抱き着くけどね」
「じゃあ、どっちでも一緒だろ」
「けど」
見上げる。傘の骨組み。そして、覆いの上にある空を幻視する。
「相合傘してると、お父さんと二人ぼっちな感じがして、いい」
耳元に唇を寄せた。吹きかけた息が返ってきて熱かった。
「ずっと、二人ぼっちだったら、いいね」
「そうだな」
やや躊躇いがちに頷く父。
傘の下。鈍色の世界に包まれて二人ぼっち。これだけあれば、生きていける。
「帰りたく、ないね」
「ああ」
「ずっとお散歩しようか」
「ああ」
「この町の外まで出ていきたいね」
「それも、いいな」
亜紀の本音の数々。受け入れるようなそれでいて受け流すような答えの数々が、少しだけ不満がったあと、
「雨、止まないといいね」
強く口にした。隣で父が深く頷く。
惜しいことに天からの雫は段々と勢いを弱めていた。それを見ながら、腕に力を籠める。
これからも絶対に離さないから。
鈍色 ムラサキハルカ @harukamurasaki
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