胸の中
からからに晴れた空に反して、亜紀の心はどうにも憂鬱だった。そもそも、晴れ空というものがさほど好きではなかったが、それにも増して。
頭に浮かぶのは、今日、中学で言われたこと。
『せめて、目ぇ合わせて話せよ』
前の席の、気が強いクラスメート。たしか周りからは、孝子と呼ばれていた。一人でぼんやりとしていたら詰められた。むっとした顔をしていたものの、悪意がなかったのはわかる。どちらかといえば、こちらを案じてくれているらしいのも。とはいえ、亜紀の本音は、放っておいて欲しい、という一言に尽きる。友だちなどを作る心の余裕はなかったし、愛想笑いをする器用さもなかった。
私の胸の中は……
「よぉ」
聞き覚えのある声は、亜紀にかぎりない安堵をもたらした
「お父さん?」
振り向けば、自転車に乗った大きな男が立っていた。世界で一番、信頼している人だった。
「どうしたの。まだ、お仕事でしょ?」
こんな晴れた日なのにと訝しむ亜紀に父は、今日は早く帰れたんだ、と気楽に応じる。もしかして、リストラされてたりしないよね、とほんの少しだけ不安になったものの、きっとそうじゃないはずと、自らに言い聞かせる。
「あーちゃんも帰りか」
大きく頷く。とにかく嬉しいことには変わりがない、と腕に抱き着いた。ほのかな汗の匂いと、発達した筋肉が心地よく、ほんの少しだけドキドキさせられる。
「おいおい、子供っぽく思われるぞ」
「子供、だもん」
離すものか、と上目遣いで抵抗する。どこか戸惑いがちに頭を掻く父は、
「この後、なんか予定はあるか」
と尋ねてくる。
「ないよ。あとは帰るだけ」
そもそも、一人で家に帰りたくなかったから、時間を潰してたんだし。不本意な本音は口にしないまま、腕の筋肉を堪能する。
そっか、と口にする父の様子からするに、このままだとまっすぐ帰宅コースだろう。一緒であるならば、それもかまわなかったが、できればもう少しだけ二人っきりでいたくもあった。
「どこか、連れてって」
だから、ほんの少しだけわがままを口にしてみる。
「どこかって言われてもな」
「だめ?」
「だめ、ではないけど」
迷うような素振りを見せつつ、自転車の方を見る父。
二人乗りとかできたら、いいな。そんな風に思う亜紀に父は、あんまり遠くにはいけないぞ、と言った。
「いいよ」
すぐさま頷いてから、腕により力を強めた。なぜだか、心配そうな顔をする父に、
「ありがとう、お父さん」
精一杯の感謝を口にして微笑む。なによりも嬉しかった。その後の移動が、徒歩になったのは、残念っだったが。
宛のない散歩の末に、通りがかったアイスクリーム屋に寄った。夕食前だったせいか父は抵抗したが、全力のおねだりで押し通した。段々とわがままになっている気がする。
イートインスペースでチョコミントアイスのスーッとする味に舌鼓を打っている最中、近くの席にいる女子高生らしき三人組の大きな声が耳に飛び込んでくる。半ば叫び声に近いそれは、最近流行りの韓国アイドルについての会話らしかったが、とにかく楽しそうだった。
「あーちゃんも、友だちとこういうところに来るのか」
チョコアイスを齧る合間に話しかけてきた父の言葉に首を横に振ったあと、チロチロとアイスを舐める。他意はないのは理解できたが、ついつい眉に皺が寄った。
「そっか」
ばつが悪くなったのか、食べる速度を上げた父は、こめかみにキーンと来たのか、頭を押さえる。亜紀は空いている方の手で介抱しつつ、
「わたし、変なのかな?」
ついついそんなことを尋ねて、後悔する。聞いたところでどうなるんだ、と思いつつ、無言でアイスを舐め続けた。できれば、流して欲しいと願いながら、しばらくアイス屋内の喧騒に身を任せる。
「変ってなにが」
しかし、父はどこか窺うように尋ねてきた。
言うべきか言わざるべきか。ほんの少しだけ悩んだあと、
「友だちがいないし……一度もできなかったし、作りたくもなかった……けど、それはおかしいって」
不安を吐露する。だからといって、解決しようもないし、しようとも思わない事柄だった。
「誰が言ったんだ?」
声を荒げる父。下手をすれば、おかしい、と言った人間のところに飛び込みかねない勢いに臆する。とはいえ、言わないのも変なので、みんな、と前置きしてから、
「先生も、クラスメートも、おじいちゃんもおばあちゃんも、それに……お母さんも」
記憶にあるかぎりの言った人間を口にする。とりわけ、先生と親族に言われたのは、堪えた。
「そうか」
コーンを齧り砕いてから、父は思い悩むように黙りこむ。
お父さんも、私に友だちを作って欲しいのかな。素朴な疑問に、亜紀は、当たり前だ、と思う。
「あーちゃんはどうなりたい?」
やがて口にされた言葉には、父なりの結論は込められていなかった。さしあたっては、亜紀の意思を確認してくれるらしい。
「どうなりたいって?」
「おかしいって言われて、どう思った?」
「いや……だった」
嫌に決まっている。
「じゃあ、おかしいって言われたくない?」
「う、うん」
なにを言わせたいんだろう、と思いつつ答えている亜紀に、
「じゃあ、あーちゃんは、おかしいって言われないために、どうしたい?」
父は結論を求めた。
友だちを作るために努力したい。これが模範解答だろうし、きっとお父さんも安心する。亜紀にもこれくらいは理解できていた。しかし、どうにも耐え難いなにかが、口を噤ませる。渋々、したがってどうなるというんだろう。嫌々、友だちを作って、周りみたいに愛想笑いを浮かべたりするのか?
「やっぱり、やだ」
ついつい飛び出した声。歯を食いしばり、目を丸くする父を睨むように見た。
「おかしいって言われても、わたしは、友だちなんて作りたくないっ」
叫んだ。途端に周囲の注目がこちらに向いたのと同時に、父が、静かに、と注意した。急に恥ずかしくなり、ごめんなさい、と謝る。
「話はわかったよ。けど」
「けど?」
「なんで、そこまで友だちを作りたくないんだ。いたこともないのに、なんでそこまで嫌なんだ?」
父の言葉に、亜紀はコーンをカウンターの上に置いてから、胸を軽く抑える。
「わたしのここは、もう満たされていっぱいだから」
だから、他のものは入らないの。そう付け加える亜紀は、どきどきしている。おそらく、父には初めて言った。
「いっぱい?」
「うん」
「なにで、いっぱいなんだ?」
不安げに尋ねる父を、亜紀は指さす。
「お父さんと」
そうだわたしには、と笑みが漏れる。
「ずっと一緒だから」
これだけでいい。そう亜紀は心から思っている。
目の前にいる父は、おおいに戸惑っていた。それはそうだろう、と亜紀は今まで身につけた常識として判断する。一方で、どことなく悪くない、と思っていそうな表情にも見えて、良かったと安堵しながら、コーンに目線を移す。
薄緑色の液体が垂れはじめているのをほんの少しだけ残念に感じた。
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