六話

 嫌な出来事は、金曜日の放課後に起きた。担任に「ちょっといい?」と呼び止められた。

「悪いんだけど、第二図書室に置いてある本の整理整頓やってくれないかな」

「ああ。構いませんよ」

「ありがとう。いきなりでごめんね」

 頭を下げ、担任は走って行った。

 第二図書室の鍵を預かり、廊下を進んだ。この図書室は教室とかなり離れていて、となりに理科室があるため一人で行くのは怖い。電気も薄暗い。どきどきしながらドアを開く。

 整理整頓といっても、大きくて重い本ばかりだ。

「よいしょっ。よいしょっ」

 あえて声を出すことで、恐怖を振り払う。全て終わると、七時を過ぎていた。ドアを閉めようと美咲が鍵を取り出すと、後ろでふわりと白いものが横切っていった。

「……ま、まさか……」

 だらだらと冷や汗が流れる。確認する勇気はなく、無我夢中で逃げた。

 月曜日、美咲はクラスメイトに「幽霊が出た」と話した。

「えー?」

「佐倉さん、幽霊信じてるの?」

「本当なんだって。金曜の放課後、第二図書室で白いものが背中に」

 きゃははっと全員が笑った。

「高校生なのに、そんなに怖がっちゃって」

「大人っぽいイメージだったけど、めっちゃ子供じゃーん」

 完全に馬鹿にされた。さらにショックを受ける言葉が飛んできた。

「佐倉さん。その幽霊と友だちになれば?」

「その幽霊、佐倉さんと友だちになりたかったんじゃないの?」

「あ、それあるね。お互いに独りぼっちだから、気持ちがわかる仲間ってことで」

「お金使わないでお茶飲めるよ。ラッキーだね」

 そしてまた、きゃははっと笑われた。

 自分たちだって、実際にその場にいたら震えあがるはずなのに。生きている友だちができないから、幽霊と仲良くしろ。泣きたくなるのを必死に堪えて、美咲は黙って俯いた。

 これは、いじめと言っていいのではないか。だが咲子に伝えられなかった。学校に怒りの電話をかけるかもしれない。笑った生徒を全員退学させろと怒鳴り散らす。そうしたら、もっと教室で浮いた存在になってしまう。隠すことに決めた。

 この話は、一週間で全校生徒の耳に届いた。ただ顔を見ただけで、冷やかしの言葉と馬鹿にする視線。教師も聞いているようだが、面倒なことに巻き込まれたくないと知らんぷり。いつ、この恥ずかしい噂は消えるのか。「美咲の気持ち、わかるよ」と共感してくれる優しい人はどこにもいない。やはり友人がほしいと強く願った。ただ一人でも味方がいれば、悲しさや空しさはなくなるのだから。

 普段からネガティブ思考なのに、嫌な出来事でもっと心の中に暗闇が広がる。母親の咲子は、娘の表情にすぐ気づいた。

「ずいぶんと落ち込んでるわね。具合悪いの?」

「ううん。別に何でもないよ」

「ならいいんだけど」

 親に心配をかけたくない。幼い頃からずっと誓ってきた。美咲が我慢すれば、丸く収まるのだ。もう幽霊がと大騒ぎするのは絶対にやめようと、自分に言い聞かせた。



「佐倉さん」

 担任が声をかけてきた。また雑用を頼みに来たのかとうんざりしたが、そうではなかった。

「金曜日に、第二図書室で幽霊を見たって?」

「幽霊かどうかわかりませんけど」

「あの図書室は、幽霊が出るって有名なのよ」

「え……」

 目を丸くした。担任は続ける。

「写真を撮ると、白い人影が写る。うめき声が聞こえる。夏でも、あの部屋だけ寒い。佐倉さんが見たのも、きっと幽霊じゃないかな」

「ほ、本当ですか? それ……」

「私たち教師でも、あの近くには行きたくないって考えてるの。特に一人は怖いって」

 美咲は間違えていなかったのだ。嬉しくはないが、正しい話をしていたのだとわかった。その担任がクラスメイトたちに教えたらしい。翌日から美咲を馬鹿にする視線は向けられなくなった。

 かといって、謝る人はやってこなかった。笑ってごめんね。本当だったんだね。なぜその一言が口から出ないのか。それとも、美咲には霊が寄り付きやすいから距離を置いているのかもしれない。

「別に私、霊感強いわけじゃないのに」

 そっと呟いた。

 数日後、クラスメイトが小声で会話をしていた。その内容に、美咲は耳を疑った。幽霊は、もともと学校にいたのではなく、美咲が連れてきたという話に変わっていた。

「全く、佐倉さん。余計なことして」

「ね。平和に暮らしてたのにさ」

「ていうか、佐倉さんが幽霊なんじゃない?」

「あっ。あたしもそうだと思ってたんだよね。幽霊っぽいなーって」

「確かにそうかも。だから生きてる人と友だちになれないんだよ」

 ありえない言葉に衝撃を受けた。がくがくと全身が震え、後ろを向いて駆け出していた。誰もいないところで、はあはあと息を落ち着かせる。

 なぜ、これほど冷たくされるのか。私はきちんと生きている。独りぼっちでもめげずに頑張って生きている。それなのに幽霊呼ばわり。あまりにも酷い。酷すぎる。

 家に帰り、久しぶりにサキの小説を書こうと原稿用紙を広げた。しかし目の前が潤んで書くことができなかった。ボロボロと大粒の涙が流れ、原稿用紙を濡らす。机に突っ伏して、声を上げないよう泣いた。

 人間は、とても残酷な生き物。自分が相手を傷つけたのを知らない。こんなふうに泣いているのも気づいていない。ただ自分が笑顔で幸せなら、他人などどうでもいい。他人の不幸は蜜の味で、こうして美咲が悲しむ姿を陰で喜んでいるかもしれない。

 体と心が音を立てて壊れていく。周りにいる人たちのセリフや態度で、深い穴に落ちていく。毎日そんな思いにさせられ、学校をやめてしまいたくなった。ストレスで爆発してしまいそう。だが、我慢するしか選択肢は思いつかなかった。咲子も、美咲が苦しんでいるのに薄々わかっているはずだ。でも知らないフリをして、厄介な問題が起きないよう黙っている。やはり、一番寄り添ってもらいたいことは、一切関わろうとしてくれない。

 失神するのも一週間に一回ではなく、一日に一回と増えていった。特に学校では、楽しそうにおしゃべりしているクラスメイトの顔を見た途端、ふっと意識がなくなる。保健室の先生は、咲子に電話をかけていた。

「病院に行った方がいいって。あまりにも失神が多いから」

「そんなことしなくても平気だよ。たぶん、よくわからないって言われるだけ」

「じゃあ、もう倒れるのやめて。気が気じゃないのよ」

「やめてって言われても、私にもいつ倒れるか」

「兆しみたいなものはないの?」

「ないよ。突然……」

 バタッと倒れた。クラスメイトがいようがいまいが、勝手に意識がなくなる。目が開くのも、だんだんと遅くなった。最初は一分足らずで戻ってきたが、今は五分かかっても目は閉じたまま。咲子は「二度と起きないんじゃないかって心配してた」と不安で仕方ないようだ。卓也も悩んでいると言っていた。美咲のおかしな行動で、佐倉家みんなが笑顔を作れなくなっていた。

「幽霊と友だちになれるよ。だって、佐倉さんが幽霊なんだから」

 意地悪そうに笑うクラスメイトたち。ポロポロと涙がこぼれる。美咲は生きている人間だ。独りぼっちでも、頑張って人生を歩んでいるのだ。

 暗くて大きな穴。どこまで深いのかわからない。きっと底まで落ちてしまったら、二度と這い上がれない。だが、美咲はその穴の中に向かっていく。失神するたび穴は広がり、流されていく。誰かが手を伸ばして落ちないよう支えてくれれば。しかし美咲には友人が一人も存在しないのだ。

 不安定な生活を送る美咲を癒してくれたのは、ある家のピアノだった。学校の帰り道の途中に、白く大きな屋敷がある。昼間でもカーテンが引かれ、一体どんな人が弾いているか見えないが、とても清らかで美咲の心を安心させてくれた。土日でもピアノの音が聞こえるため、暇さえあれば屋敷に走って行った。

「いい曲……。私もピアノ習いたかった」

 わがままを言ってはいけないと誓って、習い事なども全て話さなかった。今さら習っても上達しないし、学校で忙しく時間もない。お金だってかかる。

「弾いてる人に会ってみたい」

 美咲は、ドレスを着た美しい女性だとイメージした。住んでいる屋敷も教会っぽいし、きっと素敵な女性が優雅にピアノを弾いているのだろう。あのピアノのおかげで気持ちが明るくなったと感謝を告げたい。

 ふと、門の横に付けてある表札を見た。『聖』と書いてあった。

「なんか神様みたい。聖さん。本当に女神様が住んでるのかも」

 久しぶりに笑顔が生まれた。聖さんが美咲の友人になってくれたら。

また、弾いている曲名を調べてみた。『有名なクラシック音楽』というCDを借りて、一曲ずつ明らかになった。

「練習するの大変だっただろうな。ピアノ習っても、私には無理だ」

聖さんのピアノのうまさに、うっとりと憧れた。もし友人になったら、聖さんにピアノを教えてもらいたい。もちろん、美咲には到底難しいが、それでもピアノに触れてみたかった。さらにピアノは、左右の指が違う動きをするので、脳が活性化すると聞いたことがある。たぶんピアノを聴いている時に失神しないのも活性化しているからで、実際に自分で弾いていたら倒れることも消えるはずだ。

美咲がクラシック音楽にハマったと思ったのか、咲子は数枚のCDとCDプレーヤーをプレゼントしてくれた。

「いいの?」

「美咲が元気になるんだったら、いくらでもCD買ってあげるわよ」

「ありがとう。お母さんって、本当に子供想いで優しいよね」

ありがたく受け取り、部屋の中にいる時や寝る前などは、ずっとイヤホンを耳にはめたまま過ごした。

たとえクラスメイトが冷たくても、両親が優しかったのは幸せだと感じた。悩みの相談などは乗ってくれないが、愛情深い。これで友人が現れたら、明るい人生を歩んでいける。

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