八話
数日後、咲子が葉子と電話をしていた。どうやら病院に行ったのかと聞かれたようだ。
「ええ。行ったわよ。医者から何も病気はないって」
連れて行ってないのに、嘘をついていた。完全に作り話をしている。
「だから大丈夫よ。それに始めから悩んでないし。もう電話かけてこないで」
そして勢いよく受話器を置いた。
もし悩んでいなかったら、失神して倒れたりしないだろう。美咲の心の中が暗く沈んでいるのに気づいているのに、自分が面倒だから誤魔化している。優しい母ではなかったのか……。
また、咲子は卓也にも作り話をしていた。
「美咲。ちゃんと寝てるのか?」
「寝てるけど。それがどうかしたの」
「寝不足だから失神するんだって、お母さんが言ってたぞ。お父さんもそう思う。しっかり早寝早起きしろよ」
「してるよ。寝不足になんかなってないよ」
「病院で金使うなんて、許さないからな。それに、お父さんたちが虐待してるって見られる。やめてくれよ」
卓也も自分を子供想いのいい人と呼ばれたい。美咲の悩みに一切関わらず逃げているのがバレないよう必死なのがわかった。最もそばにいて相談に乗ってあげなくてはならないのに、全て聞く耳持たずなのだ。
二人の正体が、次第に明らかになっていく。実は愛情深いフリをしていただけで、本当に大事なのは子供ではなく自分。自分さえ幸せなら、美咲などどうでもいい。クラスメイトたちと同じ性格の持ち主だ。私は親に愛されていないというのも、被害妄想の原因になる。たとえ友人がいなくても親がいてくれればという安心感も薄れていく。独りぼっちになった時、美咲に救いの手を差し伸べてくれる人は、どこにいるのだろうか。子供を産んでいない葉子の方が、母親らしい。きっと葉子だったら、悩みは全て聞いてくれただろうし、友人ができるよう協力してくれた。
「私、葉子叔母さんの子供になりたかったな……」
呟いても仕方ないが、残念でいっぱいになった。
聖さんについて教えてくれた女性に、スーパーで再会した。
「あら? あなた、あの時の」
「こ、こんにちは」
「あの後、聖さんに会えた?」
「いえ。というか、屋敷に行ってないんです。どうせピアノの音も聞こえないだろうしって」
「そうね。どうして閉めちゃったのかしらね」
「さあ? わかりませんけど」
心のよりどころがなくなって寂しい。聖さんが人見知りで滅多に他人と付き合わない性格なのも悲しい。
「聖さんが外を歩いてるところ、 見たことありますか?」
「いえ。ないわね」
「ずっと屋敷に引きこもりってことですか? それじゃ生活できませんよ」
「私に聞かれても。それに、ただの噂でしかないからね。本当は、とっても人付き合いがよくて、誰とでも仲良くできる人たちかもしれない」
確かに、この女性にいくら質問しても答えは得られない。近所に住んでいるようではないし、聖さんを知っている人に聞いてみるしか……。
「じゃ、またね」
そして女性は後ろを向いて歩いて行った。
「もうっ。いい加減にしてよっ」
咲子の怒鳴り声が、夜遅くに響いた。また葉子と電話をしていた。
「医者が何もないって話したんだから、わざわざカウンセリングに行かなくてもいいでしょっ。……何? おすすめのカウンセラー? いいわよ。紹介なんかしなくても。私のお金は、私が使いたいのっ」
普通、親は子供のためにお金を使うものだ。この子が元気になるならとお金を使う。しかし咲子は自分のためだけに使いたいと考えている。悩んでいようが、心が傷ついていようが、関係ない。
美咲がわがままな子供じゃなくて嬉しいという声が蘇った。ほしいもの、やりたいこと、全て我慢して、親に迷惑をかけないと誓ってきた。だからこれからも、そうやって暮らそうと決めていた。だが、体調はどうしても自分の意思で操ることができない。誰だって病気になるし、回復するのも時間がかかる。そこはわかってもらいたい。
葉子が直接美咲に電話をかけてきた。
「美咲ちゃん。病院に行った?」
ここで正直に答えると、後でどんな目に遭うかわからない。
「う、うん」
「なんて言われた?」
「特に病気は見つからないって」
「……なんか嘘ついてるみたいに聞こえるんだけど」
「嘘じゃないよ。失神は寝不足が原因って話してた」
「最近、寝つきよくないの?」
「まあね。勉強難しいし」
「そう。でも辛かったら遠慮しないで教えて。血がつながった家族なんだから」
そう返し、葉子は一方的に電話を切った。
やはり葉子の方が母親らしい。子供のためなら金も時間も惜しくない。咲子と卓也は、自分が優先。実際は病院もカウンセリングも行っていないんだと伝えたかった。なぜ隠してしまったのだろう。
だんだん失神する回数は減っていった。部屋に閉じ込められる日々も終わった。大怪我をする前に治って、ほっと息を吐いた。
相変わらず、聖さんの屋敷の窓は閉まり、ウェーブ髪の女性も現れなくなった。世の中のみんなから嫌われている。避けられている。被害妄想だと葉子は考えていたが、美咲は事実だと確信していた。幽霊呼ばわり。友人がいなくても、放っておかれる。具合が悪くても、声をかけてくれない。自分には仲良しの親友がいてよかったと安心している。
「……いじめと一緒じゃないの……?」
呟く。怖い、気持ち悪いと白い目を向けられているのだ。
「ずっと私は独りぼっちで生きていくんだ」
悲しみが胸に溢れかえる。そっと空を見上げると、ポロリと涙の雫が頬を伝って零れ落ちた。
驚きは、土曜日の昼頃に起きた。散歩している途中で同い年くらいのカップルが歩いていた。彼女は派手で露出度の高い服。彼は迷彩柄のシャツと、濃紺のジーンズ。その二人のおしゃべりの内容にぎくりとした。
「俺が浮気したって泣いてたぜ。あの馬鹿女」
「ふふっ。始めから嘘だったのにねえ」
「あんなブスな女と付き合うわけねえっつーの。俺の天使はお前だけだよ」
「言わなくてもわかってるわよ。お金持ちでお嬢様のあたしが彼女になって幸せでしょ」
「そうだな。またバックや服買ってやるよ」
「ラッキー。ちょうどほしいものがあってねえ」
たぶん違うクラスで捨てられたと泣いていた子の彼氏だと予想した。実際に聞いたわけではないが、そうではないかと考えた。男もそうだが女も自信満々で、まさか王様女王様だと勘違いしているのかと衝撃を受けた。この彼女もまた騙されて浮気されているのではないか。赤の他人の美咲には関係ないので、捨てられて泣いていても別にどうでもいいのだが。
「男は汚らわしい。野蛮よ」
咲子の声が蘇ってきた。確かに女を弄んで、いらなくなったらポイ捨て。おしゃれで綺麗な子の方が友人に羨ましがられるから、平凡な子を裏切る。全ては自分の見栄え。かっこよさを引き立てるため。とりあえずほしいものを買い与えておけば、ずっと離れ離れにはならない。彼女が好きなのではなく、自分が好きだという意味だ。それに気づかない彼女も頭が悪い。利用されているだけで愛情は欠片もないのにわかっていない。もっと可愛い子が現れたら、絶対にあの子も捨てられる。恋人と付き合ったことのない美咲でもわかるのに。恋は盲目は本当だ。
遠くから眺めていても不快になるので、そっとその場から歩いて行った。
ただの散歩ではなく、実は胸の大きさを測りに行こうと思っていた。さっそく女性の下着売り場で、店員に測ってもらった。中学一年の頃から一センチも変わらず、はあ……とため息を吐く。
「どうすれば胸って大きくなるんですか?」
「さあ……。それは人それぞれ違いますから」
「やっぱり牛乳飲むしかないですか?」
「牛乳ですか。私には何とも答えられませんけど」
店員の胸は、とても大きかった。あれくらい大きかったら、男にモテそうだと憧れた。
がっくりと項垂れて、とぼとぼと家に帰った。
「胸が小さい方が好みって男の子もいるわよ」
咲子の言葉に、どきりとした。
「本当? そんな人いるの?」
「きっといるって。というか、みんな胸の大きさで決めてるんじゃないでしょ。顔や性格で決めるでしょ?」
「それはそうだけど」
「すぐネガティブになっちゃって。悪い癖だよ」
「生まれつきだから仕方ないの。どうしても治らないんだよ」
さらに自己嫌悪に陥る。
昔から美咲は後ろ向きの性格だった。周りが喜んでいても、「でも」「だけど」とありもしない心配を作っては不安になっていた。暗いことばかり話しているから、友人ができないのだ。それはわかっているのに、ついネガティブな言葉が口から洩れて、相手に嫌な思いをさせる。いい加減、このだめな部分を治したい。
月曜日も、このネガティブ思考で大失敗をしてしまった。文芸部の部長に彼氏ができたと言われたのだ。
「好きなものも趣味も一緒で、すごく幸せなの。まさか恋人が現れるなんて」
「すごいじゃないですか」
「いいなあ。羨ましいですー」
みんなが祝福しているのに、美咲だけある疑惑が生まれた。
「それ、ストーカーじゃないですか?」
「え?」
「ストーカー?」
「だって他人なのに、好きなものも趣味も一緒っておかしくないですか? ずっと前から尾行して、情報集めてたんじゃ……」
「佐倉さん。やめなよ」
「どうしてストーカーなんて」
慌てて口を閉じた。部長は怒っているというより、ショックを受けて俯いていた。
「ご、ごめんなさい」
「いえ。いいのよ。心配してくれたのよね。どうもありがとう」
口調は固く、部員は美咲を睨んでいた。誰だって初恋は祝福してもらいたい。それなのにストーカー呼ばわり。いたたまれなくなり、その日は逃げるように帰った。
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