四話

 月曜日の体育の授業は失敗せず、クラスメイトと力を合わせ迷惑もかけずに終わった。ボンヤリしないように、よそ見をしないようにと自分に言い聞かせる。現在、美咲が向き合うのは学校生活なのだ。存在しない誰かについて妄想しても意味ないのだ。いつか出会えるといいなと待っていることしかできない。

「佐倉さん。はい、これ」

 リーダー的存在の子が、タオルとミネラルウォーターのペットボトルを渡してくれた。

「あ、ありがとう」

 微笑んだが、そのまま会話を続けることはなく、さっさと他のクラスメイトの元へ行ってしまった。美咲とおしゃべるする気はサラサラないと伝わった。焦ってテンパっておかしな態度をとるのが怖いからかもしれないが、まるで逃げるように走って行ったのが悲しかった。美咲の方から近づいてみてもいいが、それも勇気が出ない。弱虫で情けない自分が嫌になる。

 ただひとつ幸いなのは、喧嘩が起きないことだ。妬みや恨みなどでいじめが始まったら、最悪の青春になってしまう。争いが起きないのはいい。美咲が我慢すれば、ずっと平和なまま生きていけるのだから。

 タオルで汗を拭き、ミネラルウォーターで喉を潤し、体操服から制服に着替えた。

 下着姿のクラスメイトを見ていると、美咲は胸が小さくて子供体型だ。ブラジャーをする必要がないくらい小さい。恥ずかしくて、さっと後ろを向いた。どうしてこんなに胸がまな板なのだろう。背も低いし、十六歳だが一五四センチくらいしかない。小学生かと間違われたり、高校生と言うと驚かれたり。それを可愛いと褒める人もいれば、馬鹿にして笑う人もいる。そのせいで、何となく美咲も他人の陰に隠れようと考え、派手な行動はとらないと決めている。

 昼休みに、違うクラスで泣き声が聞こえた。

「浮気されたんだよ。あたし……。裏切られたんだよ」

「去年から付き合ってたって言ってたよね」

「そう。お前しか好きにならないって、向こうから告白してきたのに。酷いよ」

 うわああんっと泣き叫ぶ彼女。周りでは、数人のクラスメイトが励ましていた。彼氏に捨てられてしまった。少しいい思いをさせてやって、裏では全く愛していなかったのだ。

「もう二度と彼氏なんか作らない」

「きっと優しい人が現れるよ」

「でも……」

 かなりショックを受けている。自分はあんなふうになりたくない。男に騙されて泣くなんて、絶対に嫌だ。とは思いながら、恋には落ちたいのだ。複雑な気持ちが、胸に渦巻いている。

 世の中にいる男子みんなが歪んだ性格をしているわけではない。優しい人は必ずいる。しかし人間には裏の顔がある。まさか、この人がこんな態度をとるのかと、本当に信じられない行動をとる場合だって、たくさん知っている。そんな奴に傷つけられたくないと願っていても、こちらからは見抜くことはできない。実際に付き合ってからではないと、その人の正体はわからない。だから恋愛はうまくいく可能性が低い。運命の王子様に出会い、一生幸せに暮らしている女性はごくわずか。それもすでに知っている。

 泣いていた子は、周りに励ましてくれる友人がいるから、割りと早く立ち直れるだろう。しかし友人がいない美咲は、いつまでも悲しみと寂しさで引きずられ、なかなか笑顔は作れない。だから、恋人の前にまずは友人を探さなくてはいけない。

 ペンギンのペンケースを手に入れたクラスメイトは、とても嬉しそうに微笑んでいた。

「付き合ってくれてありがとう」

「帰りに食べたクレープも、おいしかったしね」

「うん。また遊びに行こうね」

 このセリフが、槍のように美咲の胸に刺さった。あんな会話、一度でいいからしてみたい。目をつぶって、勢いよくその場から立ち去った。

 こうやって逃げることしかできない。私も一緒に行きたいと言えたらいいのに。全身が張り裂けそうなほど、自己嫌悪に陥った。



 はっと目を開けると、白い天井が視界に映った。一瞬ここがどこかわからなかったが、保健室だと気が付いた。

「え? 私……。どうして……」

 保健室の先生がやってきて、柔らかな口調で教えてくれた。

「廊下で意識を失って倒れてたのよ」

「え?」

 驚いた。意識を失ったなど、全く覚えていなかった。

「そ、そうだったんですか」 

「ええ。みんなは佐倉さんが死んだって大騒ぎしてたわよ。何かあったの?」

 聞かれても、理由など浮かばない。首を横に振って、俯いた。

「いえ。特に何も」

「悩みがあるなら、ちゃんと相談に乗ってもらいなさい」

「誰に?」

 即答した。今度は先生が驚いた。

「誰って。友だちに」

「友だち、いないんです」

「いない? ……一人も?」

「はい。一人も」

 衝撃が強かったのか、先生は一歩後ずさった。まさかこんな子がいたとはと、ショックを受けているようだ。

「……いじめられて?」

「いじめではないです。私が友だち作るの下手で」

「下手って言っても、これほど生徒がいるのに一人も作れないのは」

「生まれつきの性格なので。どうしようもないんです」

 治す術も薬もない。少しフラッとしたが、ベッドから起き上がった。先生は返す言葉がなく、黙って視線を逸らしていた。

 教室に戻ると、何人かは美咲の方に目を向けた。けれど声をかけてくるクラスメイトは一人もいなかった。意識を失って倒れていたのだから、具合が悪かったのかと心配してもらいたかった。それもまた、深く胸を傷つけた。

 保健室の先生が担任に伝えたらしく、放課後、職員室に呼び出された。

「佐倉さん。友だちがいないって本当?」

「はい。本当です」

「どうして?」

「慌てちゃって、変な態度とっちゃうんです。恥ずかしいし、ギクシャクするし」

「いじめられてるわけじゃないんでしょ? 同い年の子じゃない」

「それはそうなんですけど」

「みんな優しいんだから、緊張しなくていいのよ。友だちが一人もいないって、そっちの方が恥ずかしいと思う」

 むっとした。お前は負け犬だと馬鹿にしている顔つきだった。自分がそんな性格じゃなくてよかったと安心しているようにも見えた。

「……いつかはできるって信じてます」

 ポツリと呟き、そのまま振り返って職員室から出た。

 恥ずかしいと言ったって、現れないのだから仕方ない。あのテンパった美咲が怖いとか気持ち悪いとか思われたら、どうすることもできない。他人の気持ちを変える能力など、美咲は持っていない。唯一相談に乗ってくれる両親も聞く耳持たずなため、美咲は黙って生きていくしかないのだ。たぶん、 この先もずっと友人はやってこない。すでに諦めている。

 家に帰り、意識を失って倒れていたと咲子に伝えた。

「大丈夫? どうかしたの?」

「どうもしてないよ。私も、まさか倒れるなんて思ってなかった」

「体調よくないなら言いなさい。我慢しないで」

 これは体の病気ではなく、心の病気だと感じた。落ち込み、自己嫌悪に陥ったから、失神してしまったのだ。「わかった」と適当に答え、自分の部屋に入った。

 とりあえず、無理はしないと決めた。せめて家の中にいる時は、明るくポジティブに過ごそう。そばにクラスメイトがいない場所では、空しくならないのだから。嫌なことはできる限り忘れて、にっこりと笑っていたい。

 その美咲を嘲笑うかのように、クラスメイトたちはどんどん仲良くなっていった。土日は必ず会おうと約束し、美咲は羨ましさで胸が溢れかえった。友人というより、もう姉妹みたいな関係になっている。そして、それを見せつけるかのように美咲の目の前で笑っている。

 ペンケースを買った二人が行ったクレープも、試しに食べてみた。もちろん一人だ。しかし、なぜか味がしなかった。

「あれ?」

 慌ててもう一口食べる。全く甘みやおいしさがなかった。味覚がおかしくなってしまったと冷や汗が流れる。だが家での食事は味がした。

「クレープの味がしない? 何それ?」

「私にもわからないよ。けど、本当に味がしなかった」

「お母さんのごはんはわかるんでしょ?」

「うん。最近、私変だよね? いきなり意識失って倒れたり」

「気をつけなさいよ。怪我したら大変よ」

 もちろん注意はしているが、突然なので完全に防げそうにはなかった。

 ある夜、風呂に入る前に自分の裸体を鏡で見た。暗い表情に相変わらず女の子らしさがない。胸は小さいし痩せていて背も低い。魅力が欠片もないのに、改めてショックを受けた。

「やっぱり、男の子はグラマーな子が好きだよね。私は可愛くないし、服も地味だし、モテないの……当然だよね……」

 はあ、とため息を吐いた。

「どうやって胸って大きくなるのかな?」

 咲子に聞いたことがある。

「牛乳飲むとか、運動するとかじゃないの?」

「牛乳飲むと、お腹壊しちゃうんだよね。運動も苦手だし」

「それじゃ、いつまで経っても小さいままね」

 やはり娘はグラマーな方が嬉しいのか、咲子は残念そうな顔をした。

「まあ、今は小さくても大人になったら大きくなるって人もいるでしょ。美咲はそういうタイプかもしれない」

「本当? 大人になれば、女らしい体に変われるの?」

「必ずではないけどね」

 そして咲子は会話を終わらせた。

 生理が始まったのも遅かったし、最近は不順している。一カ月経っても来なかったりする。病院には行かず、自然に来るまで待っている。

 こんなことなら、いっそのこと男に産まれればよかった。もし男だったら胸が小さくて当たり前だし、生理の心配もない。

 とにかく、どこでもいいから女の子らしいと思えるものが欲しかった。美咲が褒めてもらえる良さ。笑った顔が可愛いとか、文章書くのがうまいとかではなく、美咲にしか持っていないところ。それは何か。

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