2.価値の対象の移行
「男は結婚して家庭を築いてやっと1人前」
という思想がある。
ここは敢えて思想という言葉を使いたい。
それ程この考えは広く一般に浸透していたものなのだ。少なとも昭和の世の中では。
そして自分が40歳を越して独身を続けている今、私はこの思想が的を射ている事を知っている。
その理由を述べよう。遠回りな説明になるが、私の実感をなぞるものなので忍耐強く読んでほしい。
まず、多くの若者は、その若さゆえの万能感から、根拠もなく自分に価値があると思いこんでいると思う。
何を隠そう私もそうであった。
自分には他人と違う価値がある、自分にしか出来ないことがあるはず、周りはどうしてこんなに馬鹿なんだろう。
私はそういう馬鹿者だった。
なので、趣味やご褒美など自分を喜ばすことには余念がなかったし、自己投資にも意義を感じていたし、実に様々な活動に首を突っ込んでいたものである。
なぜかというと、自分はそうする価値のある人間だと思っていたからである。
ところが、いざ社会に出てみると、嫌でも自分が大した存在でないことに気がつく。
そしてもう少し時間が経つと、むしろ人様より劣る存在であることが分かってくる。
そうなってくると、さすがに根拠もなく自己肯定をできなくなってくるのだ。
30歳を越した頃にはすっかり萎縮し、卑屈になり、40歳を越せばもう自分に価値など感じなくなってくる。
すると、今度は今まで楽しかった自分を喜ばす行為がつまらなくなってくる。
なぜなら、自分は喜ばす価値などない人間だからである。
今まで楽しかった趣味が中年になって急に楽しくなくなる、そういう現象をよく耳にするが、その理由はここにあるのではないだろうか。
もちろん自己投資も虚しい。
老いた自分をいくら磨いたって、一番人間的に魅力があり、知力体力共に充実していた20代に全然光らなかった自分が、中年になって何者になるというのか。
そう、自分は何者にもなれなかった。
それが正直な感想なのである。
すると、自分に価値を見いだせなくなった中年は、俄然価値を他者に依存することになる。
その依存対象が、昭和や平成の時代の中年男性に取っては妻であり子供であり、つまり家庭であったのだ。
「俺には価値がないし、俺はもう俺自身のためには頑張れないけど、妻や子供には価値があるから、家族のためにならまだ頑張れる!」
これが冒頭に出てくる「男は結婚して家庭を築いてやっと1人前」という思想の原理である。
つまり、多くの人間が自然と自己の価値を失っていく中、価値の依存先の対象の移行に成功した人間が、社会社、社交性を失わない方向に人格の練磨を続けていけるということだ。
そういう人間になれば家庭のために定年まで社会のパーツとして身を粉にして働き続けることができるし、そういう安定した人材は社会としても望むところなのである。
しかし、これが今は価値観の多様化により、価値の依存先の移行対象が家庭だけには留まらなくなった。
それが近年言われている推し活なのではないかと私は思っている。
一般的なファン活動と推し活の違いはここにあるのではないか。
ファン活動とは、価値のある自分を楽しませるために行うものだ。だから、自分はあくまでサービスを受ける側であるし、それ故上から目線になる。
しかし推し活は推しの対象そのものに価値を見出して、それを応援していられるから自分にも価値があるという肯定の仕方をしているように感じる。ファン活動とは逆に、対象にサービスをすることで日々の頑張りを得られるのだ。
そういう彷徨える価値の落ち着きどころが、現代社会は多くて独身中年にはとてもありがたい。
それに、こういう価値の依存は別に今に始まったことではない。
江戸時代の武士道は全ての価値を主君に預けることによって生きる意味と死ぬ意味を与えてもらうという原理であったし、先の大戦までは天皇陛下万歳を国民総出で叫んでいたのだ。
それが推し活になったところでさして問題もあるまい。
ちなみに、ここまで言っておいてなんだが、私には特に推しているものはない。
何のために嫌な仕事を続けているのだろう。
いい加減腐ってくる。
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