第12話
「……焼きだ。その……を叩き……してやる! ガキが」
「ぎゃあああああああ!」
「ほら、もっと……さいよ。あはははは」
甲高い笑い声が響き渡る。風向きのせいか、今日はところどころ言葉も聞き取れた。本物の絶叫も聞こえてきた。
多分熱したフライパンを、下のほうに映る影――福島君に焼き付けているのだと思う。
じりっとアスファルトを踏みしめる靴音が聞こえた。お兄さんはアパートを見上げながら僕の隣へ寄ってくる。ストーカーモードのスイッチを切ったらしい。
「ものすごい声や音が聞こえてくるけど」
五号室から漏れてくる緊迫感に呑み込まれているのか、呆然としている。
「このアパートの五号室に、僕のクラスメイトが住んでいます。隣の席の子です」
僕は説明した。
「でもあそこから激しい音が……カーテン越しに見える影の動きも、普通じゃない」
「ええ。その子の名前は福島君というのですけど、多分日常的に虐待されています」
「なら、通報しないと」
スーツのポケットから携帯を取り出す。僕はお兄さんの手を抑え、首を振った。
「あなたは自分のしていることがわかりますか。僕があなたのことを警察に言えば、逆にあなたが付きまとい行為をおこなったとして警察に連れて行かれるかもしれません」
口を閉ざす。どうやらお兄さんは、自分がしていることをちゃんと認識していたらしかった。変に逆切れされることもなかった。しばらくして、低い声で言う。
「君はいつもここであの家の様子を見ているのか」
「昨日からです。これから日課にしたいところですが」
「日課にするようなことじゃないだろう」
僕はお兄さんに腕に巻いた包帯を見せる。
「福島君は毎日のように僕を殴ってきます。虐待のはけ口かもしれません。多分暴力の連鎖ってやつでしょう。まぁそれは一向に構わないんですけど」
「そこまで分かっているなら、担任とか、誰か大人に言わないとだめじゃないか。これじゃ根本的な解決がなにもできない。君だって殴られ続けていいわけないだろ」
「担任なんて役に立ちません。それに僕は福島君の暴力を望んでいます」
薔薇の花弁をちぎった。僕は屈み込み、歩道に一枚ずつ並べる。街頭に照らされたお兄さんの影から、困惑しているのが読み取れた。
「一体なにを……」
罵声以外に聞こえてくるものはなにもない。
「僕は今まで人の影しか見てきませんでした。色の強弱はあるけれど、そこはいつも黒くて……僕の見ている世界に、色は黒しかなかった。けれど今日、あなたは僕に色をくれた。黒に赤は映えますね……ふふ、素敵です」
僕は言いながら花弁を黒いアスファルトに落としていった。泣き声が聞こえてくる。
お兄さんは不思議そうに僕と福島君の家の様子を交互に見ている。構わず続けた。
「僕にとっては素敵な色でも、人によって違います。僕は僕と母以外の人間の血を見たことがありません」
殴られているであろう福島君の影を見上げた。お兄さんはなにも言わず、携帯を握りしめたまま突っ立っている。僕はさらに続けた。
「福島君の叫びを知っても、僕は彼の血を見たことがない。この薔薇は、彼の血の色であるのかもしれません。心の血です」
「さっきから、なにを言っているんだ君は」
「つまり、あのカーテンはスクリーンです。彼にとっては血の色でも、僕にとっては薔薇風呂に浸かりながら映画を見ているのと同じですよ。吹き出ている血を、スクリーンで見ている。僕の興味は今、彼にあります。彼は僕の存在を証明してくれる唯一の人間でした」
お兄さんは数歩退いた。
「……あれが、映画と同じだというのか、君は」
「僕はこういう人間です。知らないで僕を好きだと言ったのですか」
沈黙が流れる。
「知らなかった。それでも俺は……」
「それでも?」
お兄さんの影は心底落胆していた。ここにいるのがいたたまれない。そういった様子で、走り去っていった。
僕は福島君の家の明かりが消えるまで影絵を目で追い続けていた。
翌朝早くに起きて朝食を作り、母の帰宅を待った。
朝日がリビングに差し込んでいる。
六時前に母は鍵を開けて、静かに入ってくる。僕を見て「あら起きてたの」と言った。
僕は母に、昨日誰かからメールが来たかと問いかけてみた。来ていないと母は答えた。
影を見ても嘘はついていないみたいだ。母から滲み出ていた緊張感は消え、雰囲気は前よりも穏やかになっている。
お兄さんは虐待を止めようという常識と正義感は持っていた。
ストーカー行為と僕という男を好きになったという趣味を除けば、もともと良心的に社会生活を送れる健全な人間である。
それに気づいたから、昨晩ああいう行動を取ったことで、母からも僕からもストーカー行為を退けられると思った。
けれど僕がお兄さんに言ったことややったことは、百パーセント本心なのである。
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