第10話

福島君から解放されて家に帰ると午後七時を過ぎていた。


母はすでに仕事へ出かけていていない。今日は携帯をちゃんと持っていったようだ。


ラップにかけられた料理がテーブルに並べられている。肉じゃがと味噌汁。レンジで温めて食べる。


今日は色々なことがあった。こんなに誰かと話したのは、生まれて初めて。


風呂に入り、怪我の手当てをした。顔は腫れて、手も足も胴も全身が痛い。


手足に包帯を巻いてからくつろいでいると、インターホンが鳴った。時計を見る。午後十時過ぎ。こんな時間に誰だろう。不用心に出ちゃいけませんという母の言葉を思い出して、警戒しながらそっと覗き穴を覗く。


真っ暗でなにも見えない。妙だ。いつもなら誰が立っているかはっきり見えるのに。


一回目を離して、また覗いてみる。


なにかが黒く光っていて、覗き穴からから見える景色がちかちかと点滅する。


どこかで見たことのある、艶のある黒と点滅のリズム……。


河野さんの仕草思い出して、それが人間の目であることが分かった。点滅していると

思ったのは、多分瞬き。この部屋の中を覗こうとしているらしい。見えるわけないのに。


例のストーカーか。まさか本当に来るとは。


チェーンをかけたまま、ドアを少し開けた。外灯の光で、相手の細長い影がすっと部屋の中に忍び込む。それを見て、僕はびっくりした。


牛乳配達のお兄さんだ。朝早く目が覚めた時、早めにゴミを出しに行くとたまに会うことがあった。影は綺麗な輪郭を描いており、特に悪いことはしないタイプの人に思えた。


顔を見ても爽やかな印象ではある。年齢は二十二、三くらい。


スーツを着て、真っ赤な薔薇の花束を抱えている。


「集金ですか」


そう訊いたのは建前。母に直接告白でもしに来たのだろうか。


「いいえ。あなたのお母さんに配達も集金も断られて、今は別の区域を回っています。気づいてないかもしれませんが、現在配達の人は変わっていますよ」


お兄さんの声がうわずっている。


「母ならいませんよ」


「いえ。石山隼人君、君に用があるんです。チェーンを外していただけませんか」


僕は再びびっくりした。


「僕に? その薔薇の花束を抱えて?」


「ええ。俺は」


お兄さんは言葉を切り、言いにくそうにうつむいた。


「その、隼人君のことが好きなんだ。正直一目惚れで、恋、しているんだと思う。自分はそういう方面ではないものと思っていました。だけど気づけばいつも君のことを考えていた。もう二度と下のゴミ置き場で会えないと思うと、胸が締め付けられて」


納得した。好きになっちゃいけない人って、母じゃなくて僕のことだったのだ。これは大失敗である。全く気づくことができなかった。


「母にたくさんメールをしていましたね。あれは僕が読みました。僕のことが好きなら、なんで僕ではなく母と連絡を取ろうとしていたのですか」


「隼人君のメールアドレスを知らなかった。それに……」 


初めて契約した時、パソコンもなくネットも繋がらない家だから、後々用があった時に不便かもしれないと、母は牛乳屋さんに自分の携帯番号とアドレスを教えていた。


母も好印象のお兄さんに油断していたのだと思う。


お兄さんは興奮気味に続けた。


「君は未成年だ。迂闊に近づいたり連れ回したりするのは、犯罪になると思った。だから君のお母さんに話して、許可を得てから君と食事なり、デートなりしたいと思った」


「……変な常識がありますね」


非常識の中の常識。それはお兄さんの中でしか通用しない。


「ここはひとつ、正攻法で勝負しようと思った。でもどうしても会いたくて今日、君のお母さんに無断でここまで来てしまった」 


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