第7話
朝起きて、隣の部屋の扉を開けた。母が寝ている。
僕が寝ている間にメールが来たのか気になったけれど、起こしたくなかったので静かに制服に着替え、速やかに家を出る。
日は燦々と輝いていた。暑くなりそうな気配だ。学校とは反対の方向に駅があり、近くにファーストフードがある。
時間はあったので、寄ってモーニングセットを頼んだ。ちょうど二階の窓際の席が開いていたのでそこへ座り、下を歩いている人々の影を目で追う。
朝の景色は断末魔だ。色々な人の影がいろんな人と交差し、ぴぃぴぃと叫び声をあげている。今日はあの後輩をどうやっていじめようとか、目の前のジジイを蹴り飛ばしてやりたいとか、酷いことを考えている人が結構いる。
僕はこれを楽しんで見ているわけではなく、自身の癖だと思うようにしている。いわゆる朝の読書と同じ。なんとなく、見ている。
窓からふらふらと左右に揺れながら駅に向かう影が見えた。影から視線をずらしてみた。通勤途中と思われる二十代くらいの男性が真っ青な顔で歩いている。
調子が悪そうなのは誰が見ても一目瞭然だろう。そのまま倒れて、アスファルトにぺ
ったりと頭をつけている。
男性の背中を日差しが照りつけていた。気温差の激しい時期だから体調を崩したのかもしれない。
ジュースを飲んでいるうちに視界がすっきりしてきた。ほとんどの人が男性をよけて歩いているせいだ。そこだけ奇麗に空間ができている。
駅前の交番にいた警察官が男性のもとへ駆けつける。
あー面倒くさい。俺なんで警察官になったんだろう。
必死に対応しているように見えるが、影から読み取れる警察官の気分はこんなところだ。そのうち救急車が来て、倒れた男性はなんとかなるだろう。
モーニングセットを食べ終えて、学校へ向かった。
教室へ入り席につくと、襟首を引っ張られた。見ると輪郭の歪んだ影がある。河野さんだ。
「ちょっと来て」
腕を掴まれ、半ば強引に人のいない体育館の裏側に連れていかれた。運動部の靴音が響いている。同級生の女の子と話すのは何年ぶりくらいだろう。
とりあえず、ここにも僕という存在を気にかけてくれる人はいたみたい。
「なんの用かな」
河野さんの顔を見つめた。瞬きを繰り返している。目は黒く潤んでいて、艶があった。人の表情からなにを考えているのか読み取ることが苦手なので河野さんの目や顔を見ても、今なにを考えているのかさっぱりわからない。
「以前、公園のそばのスーパーで石山君を見かけたけど、あれ、気づかないふりをしていたの」
公園近くのスーパーはよく行くけど、そこで河野さんを見かけた記憶は全くなかった。顔をあまり覚えていないから。
それでも滅多に話したことのないクラスメイトが体育館の裏側でこんな話をしてくるくらいだから、万引きのことをさしているのは間違いない。
「知らないよ。いつ頃の話?」
「嘘よ。先週。見たんでしょ」
河野さんの気のせいだ。本当に知らない。たまたま僕が通りかかっていたのだとしても、見ていない。
「うーん、本当に覚えていないよ」
影が不安そうに揺れる。
「だって、知っているのよね?」
「なにを」
すっとぼけてみた。
「私が普段していること。『ま』から始まるものよ」
「なにそれ」
「とぼけないでよ。授業中にいつも石山君の視線を感じて、それがビンビン背中に突き刺さるの。それもなにかこう、汚いものでも見ているかのような。目を合わせようと思っても石山君はいつも下を向いているし。それなのに、なにもかもお見通しっていう表情をしているの」
ええっ、と驚いてみせる。
「参った。僕ってそんな顔してる? 一体君はなにをしているの」
初めて気づいた。僕は父親を心のどこかで汚らわしいと思っているのかもしれない。
だから河野さんにもそれが伝わったのかもしれなかった。もちろん今の学校では、僕の父がなにをしていたか知っている人はいない。多分、だけれど。
「本当になにも知らないの?」
「なんだかヤバイ話だね。そこまで言われると、僕も君のことを変な目で見てしまうよ」
「知らないならいいわ。でももし知っているのなら、誰にも言わないでくれる」
「別にいいけど」
「約束よ。じゃ」
河野さんは走って去って行った。罪の意識があって言っているわけではないと思う。
クラスメイトや友達や担任に知られることを恐れているのだ。そして僕が誰かに告げ口をすることを考えたのだろう。これはあくまで推測なので、真実はわからない。
しばらくその場に立っていた。河野さんと一緒に教室へ帰ると、お互い気まずい思いをするかもしれないので時間差を考えたのだ。そうか。人とかかわると、気を使わなければならないこともでてくる。
面倒だな、と少しだけ思った。
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