第4話

六帖二間、2DKのアパートへ帰ると、母が仕事に行く支度をしていた。


いつも午後五時半頃出ていって、牛乳配達のお兄さんがアパートの前のボックスに牛乳を入れる頃に帰ってくる。


母は二十四時間対応のコールセンターに勤めている。いつも夜勤で、何時間か残業して帰ってくるのだ。そのほうが稼げるから。


「ねえ、隼人。その顔、またいじめられたの」


薄暗いリビングでファンデーションを塗る手を止め、言った。最近母のいる場所では空気が張りつめている。影を見なくても感じられることだ。


「そうみたいだね」


「なんで毎日怪我してきて他人事みたいに言うの」


「別に」


台所から揚げもののいい匂いがしてくる。忙しくても、毎日欠かさず晩ご飯だけは作ってくれるのだ。


「自分できちんと解決しなさいよ」


「うん。でもまぁ、気長に待っていれば時間が解決してくれると思うよ」


母はタンスの中から救急箱を取り出し、僕に渡した。


「なにのんきなこと言ってるの。ほら、手当てなさい。自分の身は自分で守らなきゃ。世の中誰も助けてくれないのよ」


「うん」


返事をして、テーブルの上で傷口を消毒し、腫れたところに湿布を貼った。それを見届けた母は化粧を再開した。最後の一言はいつもの口癖。


父が万引き常習犯だったために、母は苦労してきたのである。


父がいつからそんなことをしていたのかは母も知らなかった。ただ河野さんの万引きに気づいたのは、五歳の時に見た父の影がきっかけである。


手をつないで歩いていると、父の影はいやに黒々として他の誰よりも目立って見えた。父の大きく、輪郭の歪んだ影は酷く恐ろしくて、僕は度々繋いだ手を放していた。


母はその頃住んでいた地域の、あらゆるスーパーやショッピングセンターに呼び出されていた。僕を抱きかかえながら何度も頭を下げていたのをよく覚えている。


近くの住民からの噂もじわじわと広がっていたみたいだ。やがて広範囲にわたって白い目で見られるようになり、誰も僕たちを相手に話そうとする人間はいなくなった。


父だけではなくなぜか母もお店の人からマークされ、出入りが出来なくなってしまったのだ。


偏見もあったのだろう。母も僕も、隣人や近所、町の人々からまるで犯罪者であるかのように徹底的に締め出された。


祖父母は僕が生まれた時にはすでに他界しており、母は本当に困っていた。



親戚や知人に父のことで相談を持ちかけても、煩わしいことには首を突っ込みたくないという理由から次第に避けられるようになってしまった。



相談できるところは、お金を取るような機関しかなかったと今になって母は言う。


僕が六歳になった頃、父と母は離婚し僕の姓も変わった。今父がどこでどうしているか知らない。会いたいと思わないし父から会いに来ることもなかった。


母は僕を連れて誰も知らない土地で一からやり直そうと奮闘していた。しかし今度は母子家庭であることの偏見が待ち受けていたのである。


昼間の仕事はよく断られたそうだ。興信所を使って、父のことを調べた会社もあったらしい。やっと決まった昼間の仕事は、シングルマザーで新人、という理由だけで職場の主婦から散々嫌がらせをされていたようである。


母はなにも言わなかったが、僕は母の影からそのことに気づいた。だいたい自分の能力がむくむくと顔を出してきたのはこの頃からだったと思う。


そういうわけで、母も影のように生きてきた人間である。しかし環境が変わっても、僕は人の輪に溶け込むことができない。






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