第3話
鞄を持ち、出口へ向かって歩いた。後ろからなにかを投げつけられたので背中が痛かったが、振り返らなかった。
五月。日は大分のびてきて、四時半でもまだ明るい。憂鬱な季節。
太陽の光は嫌いだ。光は影を作る。自然が作る光も影も、自分で調節することができない。読み取ることは嫌いじゃないのだけれど、光が強いほど能力は増す。そして僕はいつも影なんだと思い知らされる。
自分の影を見つめながら歩く。流石に自分のものはなにも感じ取れない。
学校を出て七、八分歩いたところに緑に囲まれた広い公園があるので、そこへ入った。抜けて通ると家までの近道になる。僕の学校の生徒もよくここを通る。
学校では生徒の顔をほとんど知らないのだけれど、制服で判断ができた。
公園へ来たのにはもうひとつ目的があった。それは、公園の近くに住む瀬川さんに会うことだ。瀬川さんは七十歳くらいのおじいさんで、よく散歩をしている。福島君の攻撃により、顔や手足を傷だらけにして学校から帰る途中、心配そうに声をかけられたのがきっかけで、話をするようになった。
奥さんが病気でずっと家で寝ていて、看病の合間の息抜きで来ているのだという。
二人いる息子はそれぞれ遠くに住んでいて滅多に帰って来ないから話し相手が欲しいのだと言っていた。別に会う時間や日にちも決めていないのだけれど、公園を通る時はつい探してしまう。
風が吹く。葉の影がちりちりと細かく揺れ、青く茂る時期が来たことを喜んでいる。
僕は顔をあげて、色のついた世界に目を向けた。眩しい。
うつむいたままの状態でいると瀬川さんは僕のためを思ってか酷く怒るので、なんと
か顔で探すことにしている。人の顔を覚えるのが苦手なので、この作業はものすごく疲れる。
十分くらいかけて、やっと見つけた。瀬川さんはぽつんとベンチに腰をかけている。
話し相手になるのは面倒だけど、僕の存在を気にかけてくれる人が今年になって二人もできたことはやはり嬉しい。あまりうまくない笑顔を作って、ベンチに近づいた。
瀬川さんは僕を見て、顔をしかめた。
「なんだぼうず。また喧嘩か。何年何組だっけ」
隣に腰をかける。
「二年二組です。相手はクラスメイトですけど、喧嘩ではありません」
「じゃあ、なんで殴られてる?」
「さあ。なにか気に入らないことでもあるんじゃないんですか」
そういえば福島君も友達がいない。誰かと仲良く話しているのを見たことがなかった。
「学校はつらくないのかい」
「前は少し。最近はそうでもありません」
「そうか……」
瀬川さんは持参の水筒でお茶を注いだ。景色を見ながら茶飲みをするのも楽しいのだとか。目の前にカップを差し出されたので、僕は遠慮せずにいただくことにした。
「おいしいです」
「そりゃよかった……毎日殴られて、悔しくないのかい」
「別に、悔しいとは思いません」
目的は別にありますから。心の中で呟きながら、カップの中のお茶を全部飲んだ。
「まぁ、嫌な奴というのはどこにでもいるし。いちいち悔しい思いをしていたらきりがない。でも世の中うまあく廻っている。きっとぼうずの経験が報われる時だってくる。だから前を向いて、胸を張って歩いているんだ。いいな」
「はい」
適当に相槌を打った。僕は瀬川さんの影のほうが気になる。
「だけど、会うたびに怪我しているのはよくない」
会うたび影は薄くなっている。自分では気づいていないらしい。こうして僕と話しながらも、瀬川さんの注意は別のところへ向いている。影の輪郭がギザギザだ。ときおり鉄板が反射するみたいにぎらっと光る。
「大した怪我ではありませんから」
憎い。
最初に会った時、読みとれたのはその二文字だった。その時はあまり深く考えないようにしていた。でも今日はなんとなく、憎しみが増幅している気がする。
僕はなるべく自然な態度で座り直すふりをして、瀬川さんの影に僕の影を重ね合わせてみた。そうするほうが感じやすくなる場合もあるのだ。
ああ、憎い。疲れた。今まで散々尻に敷いてきたくせに、病気になったとたん弱々しくなりやがって。くそっ。このまま殺してやる。絶対静かに死なせないからな。
瀬川さんの気持ちが僕の中にすっと入りこんできた。奥さんに対しての憎しみ。相当疲れているみたい。もともと仲の悪い夫婦なのか、看病疲れなのかはわからない。本当にそう思っているのかもわからなかった。
これは僕の妄想なのかもしれない。でも、時々疑問に思うことがある。影の黒は他の人が見ている黒と同じなのかと。
影に限らず、空でもこの公園にある木の色でもいい。僕の見ている色と他の人が見える色は同じなのだろうか。僕にとっての青や緑が、もしかしたら他の人にとって黒や白に映っているのかもしれない。あるいは、僕にとっての丸いものや四角いものが、人から見れば異なる形に見えるのかもしれなかった。
だけどそれを確かめる方法を知らない。だから僕は僕の見ている景色や世界を信じるしかなかった。
そうやって僕自身を信じると、やっぱり瀬川さんの影は憎しみに満ちている。
もうすぐ死ぬな。薄くなっている影を見て思う。
「ごちそうさまでした」
僕はカップを返し、立ち上がった。今日はあまり会話が弾まなかった。
「もう帰るのか」
「ええ、遅くなると母がうるさいから」
常套句だけど事実。僕はまた作り笑顔を浮かべる。
「また来週」
もう会うことはないだろう。
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