第87話 天竺葵の蔓#2
それだけ・・・?
うん、それだけ。
ただそれだけの馬鹿馬鹿しい夢が残した、なかなか治まらない動悸を、ファーベルとしてはホットミルクの力を借りて鎮めたいところだったが、
もう歯も磨いちゃったし、お茶――眠れなくならないように、ハーブティーで折り合いをつけることにした。
「お父さんも、飲む?」
「む?
おぉ、折角だ、頂こうか。」
湯気の立ち昇るガラスのポットから、ごく淡い琥珀色の飲み物を、2つ並べたカップに注ぎ分ける丁寧な手付きを眺め、
クリプトメリアはひとつ咳払いをして尋ねた。
「学校のほうは、どうだね。
その・・・辛いことなどはないか?」
年末の保護者面談での会話――留年がどうの、という件を、クリプトメリアはまだファーベルと話していなかった。
そして今も、直接話題にするつもりはなかった。
それは、その話題を2人の間でどう扱っていいか分からないからだが、クリプトメリア当人は違う認識をしていた。
留年するならすればいい、のんびりやるのも良かろうて。
言わば身の振り方の選択あって、本人が望みもしないうちから他人が兎や角口を出すような話ではなかろう。
しかし、もしファーベルが初級師範学校での学業に何からの痛苦を感じているのなら、是非ともそれは取り除いてやりたい、
年長者としての広い視野から、なんなら他の選択肢もあるのだぞ、ということさえ示唆しても良いと思っていた。
しかし、
「ううん、ぜんっぜん。
とっても楽しいよ。」
深夜でもあるし、抑えた声ではあったが、ファーベルはきっぱりと言い切った。
その口調に虚偽や、自身に無理を強いているような様子は微塵もなく、
そうなるとクリプトメリアとしては、会話を先に進める術がなかった。
「・・・そうか、それは良かった。
もし困ったことがあれば、何でも相談してくれたまえ。」
「うん。
ありがとう、お父さん。」
困っていることは・・・別にないかな。
ある意味で、似た者同士の親子は2人とも黙ってお茶を啜った。
喉から鼻に抜ける爽やかな香りもまた、気分を落ち着かせ、対話よりも静謐がふさわしい空気をその場に醸し出すものだった。
どんな夢だったのか?とクリプトメリアが聞いてくるなら、ファーベルは話すつもりでいた。
また、ファーベルの方から話しはじめれば、クリプトメリアは親身に聞いてくれたことだろう。
でも、話してどうするの??
目覚めた時にはじっとりと汗をかき、息をするのが苦しかったほど、怖くて後味の悪い夢ではあったが、
夢とはそういうものであるように、支離滅裂な、さまざまな記憶や心象の欠片の寄せ集めでしかなく、
今はもう、寝汗も呼吸も治まっている。
お父さんに話して聞かせたところで、それはただの夢だから安心しなさい、とか、
たぶんそんなことぐらいしか言いようがない。
それだけの、分かりきった返事をもらうために話すほど動揺しているわけではない、「困って」はいない。
「さて、と。
私はそろそろ休むことにするよ。
お前も、明日・・・というか今朝も早いのだし、早めに床に戻るようにな。」
「うん。
おやすみなさい。」
自室に下がってゆくクリプトメリアの大きな背中に、ファーベルは小さく手を振った。
その仕草は幼いときからの習慣だったが、クリプトメリアは振り返るということをせずに部屋を出るので、
きっとそのことをお父さんは知らないだろうな、とファーベルは思った。
2人とも、相手に遠慮しているわけではないし、それ以外にも何ら話しにくい事情があるわけでもない。
ただ、両者の間には対話を必要とする事案がなく、必要がなければあえて対話はしないのがこの父娘だった。
やがてファーベルも自室に戻り、電燈が消えて暗がりに沈んだリビングのテーブルの上。
クリプトメリアが畳んでひっくり返したために、先程彼が読んでいた記事が表に出てきていた。
いずれも遠い戦地の状況を伝える記事に埋もれるようにして組まれた、わずか一段の小さな記事は、
もう一つの異郷、はるかなるトワトワトの音信を伝えていた。
この冬、オロクシュマ・トワトワトに現れて住民を襲い、17名に及ぶ犠牲を出した魔族が、
内地から派遣された敏腕の猟師によって、ついに射殺されたというものだった。
不可解なことにその人型魔族は、トワトワトのような北方では見られないはずの、熱帯地方産の亜種であったと、
小さな疑問符を添えて、記事は騒動の終結を告げていた。
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