第86話 天竺葵の蔓#1

坂道の途中に建つアパートの2階、深夜2時。


戸外では、この季節にはままある陸風が吹き、

隣のアパートとの隙間から、窮屈そうに生え出して2階の高さまで茂るハリエンジュの樹を、ザワザワと揺らしている。

半ば開いたカーテンの間から、黒々とした枝葉が、闇に掴みかかるような動作を反復しているのが見えた。

冷え込みは厳しく、マグノリアでは滅多にないことだが、朝には氷点下を記録するかも知れぬ。


電燈を1つ灯したリビング・ダイニングで、クリプトメリアは新聞を読んでいた。

ゆっくりと煙草をくゆらせながら、しかしその視線は険しい、

睨みつけるようなというよりは、物憂い、気が滅入るものを相手にする人間のものだった。


上階の方から、小さな、しかし風の音とははっきり違う物音がして、

やがて入り口の引き戸がするすると半分ほど開き、ファーベルがその小柄な姿を現した。

クリプトメリアはおもむろに、新聞の開いていたページを伏せた。


ファーベルは戸口に立ったまま室内に視線を走らせ、

それから探るような眼差しを父親クリプトメリアに向けてきた。


「2人ともとっくに寝たよ。

どうした、こんな時間に珍しいな。」


「うん。

ちょっと怖、、イヤな夢見て、目が覚めちゃって。」


「・・・そうか。」


クリプトメリアの曖昧な相槌を背に受けて、ファーベルはキッチンへと向かった。


どんな夢だったのか、と聞いてやってもいいのかも知れない。

しかし、イヤな夢、と言っているものを、他人ひとに話したいと思うだろうか。


クリプトメリアは言葉を飲み込み、知る機会を逃したが、それは実際このような夢だった。



夢の中でファーベルは、今は遠い記憶にある時分の小さな女の子だった。

花柄のプラトークで髪を包み、着ているのも、絵本の中から抜け出して来たみたいな、鮮やかな色づかいの昔の衣装。


小さな女の子=ファーベルは、雲をついて天にそびえるつるを登っていた。

豆の木の蔓、、じゃない、天竺葵てんじくあおいの蔓だ。

細かな産毛に覆われた茎が幾本も絡み合い捩れ合い、登るのにちょうどいい手がかり、足がかりを作ってくれているのだった。

遥かな眼下には、緑の野に森や山々、悠々と流れる川の地上が、3の9倍の国々の彼方まで見晴らせる。


けれど小さな女の子=ファーベルに、眺めを楽しむ余裕はない。

彼女は先を急いでいた、急いで逃げているのだ。

後から追いかけてくる、みにく禍々まがまがしい怪物から。


大丈夫、逃げ切れるから。

小さな女の子=ファーベルは自分に言い聞かせる。

わたしのほうが登るの速いもの、捕まりっこない。

だから、焦って慌てて足を滑らせたりしないように・・・


彼女の身を怪物から隠すように、天竺葵は柔らかな緑の葉、赤い鮮やかな花を茂らせる。

小鳥が周囲を飛び回り、栗鼠リスは先導して蔓を駆け登りながら、

みんな、がんばれ、がんばれと小さな女の子=ファーベルを励ましてくれる。

うんがんばる、大丈夫。。。


小さな女の子=ファーベルは落ち着いていた。

ちっとも、怖ろしさにすくんでなんかいなかった。


やがて大きな雲を突き抜け、銀色の背面の上にひと群れの花を茂らせて、天竺葵の蔓は終点になった。

小さな女の子=ファーベルは、そっと雲の上に踏み出した。

少し弾力はあるけれど、雲の地面はしっかりしている。

大丈夫、わたしは雲の上を歩いていける。


やがて怪物も天竺葵の蔓を登りきり、雲の上に姿を現した。

元は”ゴキブリみたいなうじうじで、イモムシみたいなぶよぶよの”

しかし脱皮を繰り返して、今は真っ黒な、数倍の大きさがある怪物になっている。


怪物が雲の上に踏み出してくる。

小さな女の子=ファーベルは落ち着いていた。

大丈夫、”こいつ”は雲の上を歩けないから。。。


果たして、怪物の脚は霞の地面を捉えることなく、黒々とした巨体は雲をすっぽ抜けた。

次の瞬間、天地は反転した。

いや、反転したのは天地だけではなかった。


ファーベルはあっと叫んだ、落下しているのはだった。

わたしは小さな女の子じゃなくて、怪物の方だったんだ。。。

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