第85話 現実自身の撞着#3

「今度は一般化のために、別の例を見てみましょう。

クリプトメリア君と、controversialなフロイラインの間で戦われたという、科学研究の価値をいかに評価するか、という議論ですが。


フロイラインの主張は、既に行われた研究の価値を否定することに終始しており、議論を構成する主張を含んでいたか疑問が残りますが、

クリプトメリア君はこれを、基礎研究と応用開発との対立の構図で捉えて議論を展開しました。

基礎研究すなわち、直ちに金銭等の利益につながらない研究、応用開発はその逆です。


応用開発の価値評価は比較的に容易です。

研究自体の基軸が利益の創出にあるわけですから、創出が見込まれる利益と、投じられる費用の差、ないし比率を判断基準とすればよいわけです。


一方、そのような数値的な評価の難しい基礎研究は、故に投資に値しないものなのか。

否、とクリプトメリア君は主張します。

基礎研究こそが、応用開発の土壌である人類の知的財産を育む揺籃であって、

何より知の深耕は、利益の追求に優るとも劣らない、人類の本源的な欲求であり、豊穣をもたらすものであると。


ふたたび、真摯きわまるこの主張自体に対する反論は、多くは現れないでしょう。

しかし、現実は得てして、人類の本源的欲求を阻害し、豊穣を遠ざけようとします。

具体的に、10の基礎研究の構想があり、手持ちの資金がそのうちの5しか実行を許さないとしたら、

私たちはいかなる基準に基づいてその5つを選択すればよいでしょうか?

その研究が知の土壌を深耕する度合いが、かかる費用に見合うものであると、どのような論法で出資者を説得すればよいでしょうか?



塵咳者の支援にせよ、基礎研究の推進にせよ、

このように考えていったとき、これは社会保障、科学振興といった個別の議論に留まらず、

結局のところ、社会がいったい誰のための幸福を指向しているのか、という論点に行き着くことに気づきます。

納税者の幸福なのか。

社会機能の受益者の幸福なのか。

あるいは社会にとっての幸福、なるものが実在するならば、その主体は一体何者なのか。


この問いが対立を内包して耳に響くのは、

我々にとって社会、共同体というものは、主体であると同時に客体であるからなのです。

両者の相克のうちに共同体は運営されている、それも特定の構成員の人格に帰属するわけではなく、

せめぎ合い、揺曳する相克そのものが、共同体に仮想の意志を与えていると言えるかも知れません。

そしてこの仮想の意志は、必ずしも個々の構成員に公平に接し、各々の幸福を極大化させようとするものではないのです。


そのことを端的に要約した、こんな言明があります。

”自己の利益は他者の損失によって構成される”と。

これは、証券市場のような限定的共同体における利益の動態を説明する、経済学上の言葉ではあります。

しかし経済学とは、神を必要としない、共同体分析の純粋科学であるわけですから、

この言葉は、共同体一般に広く適用しうる解釈を示唆するものです。


ルピナス青年の事情についても、ここまで見てきたような相克が、数多く絡み合った形で発見されることでしょう。

現場側と会社側、管理者と部下である社員、上司である取締役。

一方の幸福、願望の達成が、他方の苦悩によって実現される、これもまた認めざるを得ない現実です。


他者の幸福を損なうことなく自己の幸福を増大させる、それを、共同体を構成する全員の自己において実現するにはどうすればよいのか。

過去幾世紀に及ぶ知の深耕にも関わらず、残念ながら人類はまだ、そのための理論を持っていません。」


「う~~ん、そうなるともう、やっぱり神サマとかにお出まし頂くしかないんでしょうかねぇ。」


アマリリスは若干の揶揄を込めて言った。

”現実自身の撞着”その言葉の意味を、イヤというほど思い知った自分への揶揄だった。

困っている人を助けてあげたい。

世界を探究する情熱は応援してあげたい。

ブルカニロ博士の言う通り、その気持自体にウソも迷いもない、まっすぐな心からの願いだ。


けれどそれが”気持ち”に過ぎなくて、現実を前にしたら容易に阻まれて砕け散ってしまうものなら、

人類共同の苦悩から解放されたい・解放してあげたい、というあたしの願いは、はかなく虚しい幻想なのだろうか。

人知を超越した存在、とやらに縋るほかはないのだろうか。


「そう結論づけるのは早計というものですよ。

第一に、現時点で発見されていないことが、何物かの存在を否定する証明にはなりません。


第二に、むしろこの認識は、神の限界を露呈しているのです。

古来より多くの神が、人間の現実を構成する個別の事情には関与せず、精神面、”気持ち”の導き手に留まってきたのはここに理由があります。

宗教上の教理は、人間に願望を持つことは教えても、その実現方法は提示できなかったのです。

人類共同の苦悩を解決する者が現れるとしたら、それは少なくとも神ではありません。」


ブルカニロに励まされて(?)もなお、憮然、ないし悄然とした気持ちで、アマリリスは文学部の校舎を出た。


ブルカニロの話は、目をみはるような驚きというものはあまりなく、

人間の考えや気持ちへの解釈が中心だから、それ自体はありきたりで分かりきっている、と思えることも多い。

今日もそのひとつ、そしていつもそうなのだが、不思議と深い示唆を受けるものだった。


考えごとの常で、都会の暗い空に導き手の星を探しながら、

アマリリスの胸に去来するのは、遠いトワトワトの初夏、オロクシュマの巨岩の上から、陽光を浴びた街を見下ろしていた時の、魔族の言葉だった。


人間の幻力マーヤー、人間同士でお互いに作用し合っている、集団全体としてはとても強い力。

そして、”だから人間はこれだけ繁栄したんだと思うよ”と。


アマロックは、異界では望むべくもない人間の協調関係、現実上の集団の力のことを言っていたのだろう。

でも、社会とか共同体にあるのは、それだけなんだろうか。

繁栄は力の成果でしかなく、精神の偉大さとは何も関係がない。

だいいち、人間が魔族に比べて偉大だなどと、アマリリスはこれっぽっちも思っていない。


それでも、人間にしかない、例えば誰かに理解されたと感じる喜び。

自分が全て、自己の保存が全ての異界にはない、人間だけのもの。


作業場のルピナスが感じていた、”世界と健全な関わりを持ち”、”苦しみも喜びも分かち合う”感覚。

魔族なら、自家発電的な錯覚だと一笑に付したに違いないその感覚が、人間のあたしには痛いほどよくわかり、貴いと感じる。

”人類共同の苦悩”を解決する方法があるとしたら、それはきっとこの感覚の延長にあるのではないだろうか。


願望が産み出した直感に過ぎないのかもしれない。

けれどアマリリスは、ルピナスの苦悩のために、それを信じてみたいと思った。

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