第84話 現実自身の撞着#2
”現実自身の撞着”
「ルピナス青年の事情は、複数の主題をはらみ、利害関係者もいささか数が多い。
――もっとも、人間の苦悩の構成として殊更複雑なものとは思われませんが、
ここでは考察を容易にするために、もっと単純な例を取り挙げることにしましょう。
鉱石の採掘場、あるいは一部の工場など、微細な粉塵が多量に浮遊する環境での労働者の間には、
塵咳という呼吸器系の疾患が広く見られます。
長期に渡って粉塵を吸入した結果、呼吸器に微細な粉塵が沈着・蓄積することで、咳から、呼吸困難、衰弱による死亡まで、
進行は緩慢ですが、深刻かつ治療困難な健康被害をもたらし、罹患者の生活に多大な負担を強いる疾病です。
人間社会が大量の資源・生産物を消費するようになったことに伴う近代病であり、
罹患者は、我々がその恩恵を享受する近代文明の功労者であり犠牲者なのですから、
彼らの救済に関して社会の側に責務がある、塵咳者の生活を一定支援する必要があるのは明らかです。
アマリリスさん、おそらくあなたも、この点について異論はおありではないでしょう。」
「ええ。
国とか
人間が他者に、誰かれの区別なく行う善行、それに反対する人は流石にいないのではないだろうか。
実際、病人をはじめとする社会的弱者の保護、支援は、共同体が果たすべき、最も優先的で不可欠の責務であると、
広く信じられている。
「高尚な信念が直ちに、輝かしい実現へと踏み出すとは限らない――むしろ殆どない。
あえて、”残念ながら”と付け加えることはしません。
それが、”現実自身の撞着”です。
塵咳者の苦悩を慮って、彼らの生活の負担を軽減するような社会制度を設計するとして、
彼らは生活の何を保障されるべきでしょうか。
彼らへの同情に持てる全てを注ぎ尽くし、生活にまつわる負担の一切を肩代わりすることで彼らの苦悩を払拭する、
感傷的なひとりの私人としては、そんな夢想も可能でしょう。
しかし現実には、これは明らかに行き過ぎた盲愛というものです。
その施策は塵咳者に不動の特権を与え、悪質な医者を抱き込んで不正に塵咳の認定を得ようとする者、どころか、
特権を羨む健康な生活困窮者が、自ら塵咳に罹患しようと目論む道すら拓きかねません。
そのような結果は、社会にとっても、自身を害する当人にとっても不幸であることが明らかです。
であれば考えを改め、厳正な診断により、明白に塵咳に起因すると判断された治療にのみ、支援の範囲を限定すべきでしょうか。
けれども、塵咳患者はその持病故に、社会的な活動、特に就労の機会を大幅に制限されているのです。
やはり、塵咳という病気治療の直接的な負担だけでなく、間接的・潜在的な損失に対する補償、
塵咳に罹患しなければ獲得し得たと想定される、最低限の生活を送る権利は保障されるべきなのです。
しかし――すでに何度目の”しかし”か定かでありませんが、しかし、
それでは「最低限の」生活、そのための補償の基準は、どこに設定すればよいでしょうか。
現に社会には、労働の能力がありつつその活用を怠り、自身の無為無策、無気力のために最底辺の貧困に留まる者が多数います。
先の過剰な福祉制度が施行されたら、悪用のために自身を害しかねないと危惧されるような手合です。
彼らを最低限の基準とするならば、勤労のゆえに病み、意欲はあってもそれを実現する術のない塵咳者も、同じ境遇に甘んじなければならないのでしょうか。
そうでないとすれば、(そして先の議論を回避するために)基準を底上げし、無為無策ゆえを含めて一律に困窮者をその基準まで引き上げるべく救済するべきなのでしょうか。
これには、一部の篤志家は諸手を挙げて賛成したとしても、他からは明瞭な反対が表明されることでしょう。
塵咳者の権利を護ることには同意しても、社会に寄生する堕落者を肥えさせるための負担は御免蒙る、
おそらくそれが、現実の納税者の自然な態度というものに違いありません。」
「・・・・・」
トワトワトの1年目の冬、オシヨロフの森を襲った窮乏を思い出していた。
飢えやつれたオオカミたちを見ているのが辛くて、サンスポットだけでも救えないかと模索したものだ。
けれどその思考はすぐに、であればオオカミぜんぶを、そして森の生き物ぜんぶを救わなければならないということになる、
という方向へ発散していった。
その思考が滑稽なのは、現実的じゃないということもあるけれど、
そもそも何がしたかったんだかわからなくなる、というところにあった。
あの時はあたしが人間の論理を異界に持ち込んだから滑稽さが際立ったけれど、
人間社会の”現実自身の撞着”も、そこまでシャープじゃないだけで同じ構図だということかな。
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