第62話 歪にして純なる魂

気がつけば、手が止まっていた。


時計は5時50分。

学校で仕上げるのは諦めて、ファーベルはレポート用紙の上に鉛筆をコロリと転がした。

けれどすぐに帰り支度はせず、しばらくテキストを眺めていた。


実際のところ、提出は年明けなのだから、急ぐ理由は全くない。

けれども一つ棚上げにしたら、次から次へと積み重なっていきそうで、気になって仕方がない。

そしてファーベルの性格的に、何かが気になりはじめると、すべてを差し置いてそこに意識が囚われてしまい、

考えまいとしても、他に集中すべきことがあるとわかっていても、なかなか自分を引き剥がすことができないのだった。


「・・・・・」


他愛もない子どもの悪ふざけ、と言ってしまえばそれまでなのかも知れない。

そして、良くない行いであることは明らかなのだから、「先生」ならもっと厳しく叱るべきだったのかも知れない。

そうしなかったのは、2人の心証を気にしたからではなかった。


このテキストにも書いてある。


『児童指導の要諦:

一、第一に児童の自己肯定感を高め

一、他者に対する正常な共感的感応を育成し

一、自発的意志のもとに社会の一員たる振舞いを涵養せしめん』


そのとおりだと思う。

理念としてはすばらしい。

けれどどうやって?


分別をわきまえた目には、異様で悪質な行いに思えてもそれを信じている、

いびつであったとしても純粋な心を傷つけずに、どうやって??


本物の先生、身内では児童こどもは天使ではなく悪魔よ、と言って憚らない、年季の入った先生方なら、

そんなものは理想論として取り合わず、理念よりは直感に従ってびしばし指導することだろう。

けれどファーベルにはそれができなかった。


「なれるのかな、、わたしが、先生なんて。。」


ため息とともに口をついて出た、そんな悲しい言葉が、小さくも鋭い針のような痛みで胸を刺した。


その痛みはまた、ファーベルが自覚しない意識の底層からの警告であり、そして囁きかけでもあった。

どれだけ寄り添おうとしても拭い去れない戦慄、人を呪い、そのはらに悪魔を植え付けようとする行いに感じるおぞましさと、

同時に、そのような非道をもってしても、行った裏切りに報いさせるべきだと主張する精神への、賛同と羨望の入り混じったものが、

誰も覗き込むことをしない、ファーベルの魂の奥底で揺曳していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る