第43話 まって#1

二人になって半年以上の月日が過ぎた、トワトワトで3度目の春。


冬が終わったあとも、幻力マーヤーの森の林床にしぶとく居座り続けていた根雪が、渋々と森の奥へ引き上げてゆき、

湿地ではミズバショウがたけのこのように緑の若芽を出し、気の早いものは白い花を開いている。

しかし樹々の芽吹きはまだ先、大地もあらかたは枯れ草色の季節だった。


アマリリスは以前と変わらず、

オオカミの群に加わって食事を得、たまには服を着て、臨海実験所に残された本を読んでみたりと、気ままに暮らしていた。


人間の感覚で言えば、アマリリスはアマロックの伴侶と言えただろうが、

二人の間にも、以前と同じ調子の時間がゆらゆらと流れていた。


それ以上のことを何も要求されないというのは、アマロックに必要とされていないような気がして少し辛かったが、

それでも、未知への恐怖に較べれば気楽、という一面もあった。



どうしてその日だったのかは、いまだに分からない。

魔族の考えることだから、訊いてもあまり意味がない気がする。


アマリリスはその日も服を着て、実験所のソファーに腹這いになり、ファーベルが置いていった童話の絵本を読んでいた。


『「あたし、カイちゃんをさがさなくてはならなかったのだわ――カイちゃん、どこにいるか、しらなくって。あなたは、カイちゃんが死んだとおもって。」と、ゲルダは、ばらにききました。

「カイちゃんは死にはしませんよ。わたしどもは、いままで地のなかにいました。そこには死んだ人はみないましたが、でも、カイちゃんはみえませんでしたよ。」と、ばらの花がこたえました。』*


そこにアマロックが入ってきて、森へ行かないか、と言う。

どういうつもりか、二階の寝室の敷物にしていたヒグマの毛皮を丸めて肩に担いでいる。


恋人の魂を探して世界中を駆け回る少女の物語のゆくえが気になりつつ、

アマリリスは読みかけのページにしおりを挟んで起き上がった。



ここ数日、臨海実験所にこもっていたあとも、森の様子に大きな変化はなかったが、

所々でフキノトウやキトピロの芽が顔を覗かせているのが目についた。


アマロックは尾根を伝い、沢沿いを歩き、森の奥へと入って行く。

アマリリスは黙って後についていった。


やがてひとつの丘に登りはじめた。

幻力マーヤーの森にはいくらでもある、複雑な地形の隆起のひとつで、周囲の丘のなかでは高さがあり、傾斜も急だった。


丘というより峰と呼んだほうがよさそうな場所を登って行くうち、アマリリスは息があがりはじめ、とうとう立ち止まってしまった。


最近、森の中を移動する時はオオカミの姿になっていることが多く、二本足で道なき野山を歩き回っていた去年までに比べ、人間の体としてはすっかりなまっていた。


「まって、アマロック、息が、、」


アマリリスはダケカンバの枝を掴んで不安定な斜面に体を支え、前を行くアマロックに、切れ切れに訴えた。


アマロックは戻って来て、彼女の手を取り、ひっぱり上げた。

力強く、けれどアマリリスが肩を痛めたりしない配慮が感じられる力加減で。

大きな段差の一歩を踏み越えた勢いで、アマリリスはアマロックに倒れかかるようにすがりつき、抱きとめられた。


ああ、

今この瞬間、世界が永遠に活動を止め、

わずかに漏れた呼吸までも、この一瞬の中に閉じ込めてしまえたら。


そんな思いが、光って消えるフラッシュのように、頭を通りすぎた。


「・・・ありがと、もう大丈夫、、


って、え?

わっわっ、わぁー」


アマロックは担いでいた毛皮で無造作にアマリリスをくるみ、

腰と膝の下に回した腕で、ひょいと抱えあげた。


アマリリスはアマロックの首にかじりつき、アマロックが歩く穏やかなリズムを伴って、自分の体が持ち上げられて行く感覚に身を委ねた。

慣れない姿勢のせいで、地面から実際よりもずっと高い位置に体が浮いているように思え、少し恐ろしくもあった。


斜面を登りきった。

去年の落ち葉が散らばる、少し開けた場所に、アマロックは彼にかかる重みを感じさせない動作で、ふわりとアマリリスを横たえた。



身を起こそうとするアマリリスを押し留めるように、魔族の半身が近づいてきて、唇を塞がれた。




*アンデルセン『雪の女王』

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