第39話 都市の境界

それから数日後、アマリリスは、よもや彼女を猥談のネタにはすまい、

さりとて自分にどのような興味を持っているのかも一向にわからない相手と、コーヒーを飲みながら対話していた。

ブルカニロ博士のところで出してくれるコーヒーはいつも美味しい、独特の香りがする。

秘書さんが持ってきてくれるけど、よほど手間のかかる淹れかたをしているんだろうか。


「ヴァザプルドとは、また大層な健脚ですね。」


「なんか、歩きはじめると歩いちゃうんですよね。

引き返しどきが分からないっていうか。」


「初めからヴァザプルドを目的地にしていた訳ではないのですか。」


「ぜんぜん。

あの占い師のおばあちゃんに会わなかったら、もっと遠くまで行っちゃってたと思います。」


先日のぶらりマグノリア大旅行の話をすると、ブルカニロは興味を惹かれた様子で、

質問を交えつつ、道順や、道中でアマリリスが目にしたものについて聞きたがった。


アマロックについて話すことが――いや、話せることがなくなって、彼のことがほとんど話題に上らなくなっても、

ブルカニロとの面談は、アポも取らず間隔も時間もバラバラなまま、というのが恒常化して続いていた。

時計に囲まれたこの部屋で過ごす、時の止まったような時間――という表現は矛盾かもしれないが、

職場ともアパートとも違うこの異空間で、ブルカニロのセロのような声に耳を傾ける時間は、アマリリスの心の置きどころの一つとなっていた。


大都会マグノリアってほんと果てしないですねぇ、行っても行っても街、街、街で。

どこかに端っこがあるのは分かってるんですけど、あれだけ歩いても着かないし、

端っこまで行って見てきた人いるのかな??って思いましたよ。」


「実際に、端と言えるものは存在しない、

観念的な無限の領域だと捉えるのも面白いかも知れませんね。」


「え?」


ブルカニロは、穏やかな、しかしどこか底知れない感覚のする灰色の瞳でアマリリスを見つめて言った。


「無限とは不思議な言葉です。

言葉として存在しながら、それが指しているものを誰も把握することが出来ない。

字義からは、際限すなわち「端」がない、というようにも読めますね。


あなたがおっしゃる通り、都市は確かに実在しており、通常は有限の領域として観念されるものでしょう。

しかし、人工的な計画都市のようなものは別として、マグノリアを含め、人間の社会活動の自然な所産として成立した都市は、

物理的な領域ひとつとってみても、どこにその境界を引くべきか、誰も明示することは出来ません。

行政区画であるとか、土地に対する建築物の平均密度といった尺度で輪郭線を描くことは可能でしょうが、

明らかに恣意的な線引きであって、社会統計上の基礎情報としての意味しか持ちません。


そして都市とは明らかに、単なる建築物の密集地帯でもありません。

都市の成立に不可欠な基盤である、高度に発達した交通機関や流通網、通信設備であったり、

都市特有の産業、行政制度、文化などを含めて、私たちは都市というものをイメージしているのです。

また、いずれの都市も、他の多くの都市や地域との密接な連関の中に在るのであり、その点でも固有の境界というものを持ちません。


あなたがそう感じられるなら、都市は実際に終端を持たない、無限の観念と捉えてよいと思いますよ。」


えーー、でもそれ言ったらさぁ、、


という感想が顔に出ていたのだろう。

ブルカニロ博士は、軽くほほえんで尋ねた。


「詭弁だと思われますか。」


「う~~ん、あたしがこの目で、ココがマグノリアの端っこ!

っていう場所を見てきたわけじゃないから、違いますとは言い切れないですけど、、


でもその理屈でいくと、信じていることは全部本当っていうか、

たとえば昔の人が、大地は真っ平らで、端っこまでいくと海が滝になって流れ落ちてるとか、

そういうのも、その人がそう感じているなら本当なんだ、ってことになっちゃいません?」


「あなたはそうでないと、今日では広く信じられているように、地は巨大な球体であるとおられますか。」


「えぇ。」


「何故でしょう。

ご自分の目で、宇宙空間からこの惑星を俯瞰されたことがお有りではないですよね。」


「それは・・・」


学校でそう習ったから、というのはこの場合答えにならない。

アマリリスはしばらく考えてから、おもむろに、はっきりした声で答えた。


「信じます、そう感じています。

何故なら――ウィスタリアから、カラカシス山脈を越えて、ラフレシア鉄道に乗って、

マグノリアに、それからトワトワトに行って、

あたしがこの目で見てきた世界は、地図のとおりでした。

まだ見ていない、きっと一生目にすることのない場所はまだいっぱいあるけど、だからってそこに嘘があるとは思いません。

このままどんどん先に進み続けたら、ぐるっと世界一周してもとの場所に戻ってくるんだと思います。」


逆に、ウィスタリアが今もまだ平和なままだったら、

周囲を山地に囲まれたウィスタリア中央盆地が世界の全て、

カラカシス山脈の向こうには、翼を持つ獣を駆る、金色の目の神人の国があると信じて生きていくことも可能だったのだろう。


ブルカニロは満足げに頷いた。


「明快なご回答をありがとう。

いつもながら、鋭い洞察には感嘆いたします。」


いゃ、それほどでも・・・てへ。


ブルカニロに褒められると、アマリリスは身をよじりたくなるような喜びを感じる。


「でもあれ、天動説?地動説??どっちだったかな、

あたしたちのほうが太陽の回りをぐるぐる回ってる、っていうのは実感湧かないです。

学校で太陽のほうがずっと大きい、って習うまでは太陽ってせいぜいこの部屋ぐらいの大きさだって思ってたし、

月や星も、そんなに遠くにあるような感じしない、魔女の箒とかあれば取りに行けそうに見えますね。


でもそれも、”それでも動いているのは私たちだ”って言った人みたいに、

太陽や星のことをよく調べて、太陽が動いているとしたら説明がつかない、って思ったら実感が湧くのかなぁ。」


「なるほど、

知識と直感の乖離ですね。」


そこに乖離がある場合には、アマリリスは直感の方を採用してきた。


「だから先生がおっしゃるように、端っこの線を引けないんだとしたら、

マグノリア無限大って、把握できないものなんだっていうのもわかる気がしますよ。

じっさい果てしないし。」


「都市は一つの比喩でもありましたが、

同じようなことが、私たちの魂についても言えるのです。


地が動くと信じる者、天が動くと信じる者。

私たちは個々に独立した自我を持つようでありながら、現在過去を問わず、ありとあらゆる他者と連関し、影響を及ぼしあっています。

それらの影響のもとに私たちの人格が形作られる、極言すれば他者から寄せられる影響の集合こそが自己であって、

自身の自己と、他者の自己を分離することは根本的に不可能です。


言わば私たちは、あらゆる透明な幽霊の複合体なのです。」

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