第20話 異質性の聴講生#2

そうやって、ちょっと大学生の気分を味わってみるだけのつもりだったから、

基礎教育も最後まで終えていない自分が、世界帝国ラフレシアの、最高学府の講義を理解できるわけもなく、すぐに飽きが来るだろうと思っていた。

しかし意外にも、それ(飽き)はなかなかやってこなかった。


数学や論理学のような分野はちんぷんかんぷんだったが、

大講堂で行われるような講義の多くは、大学に入って年の浅い学生を相手に、特別な知識を前提とせずに組まれているらしく、

何について話されているかぐらいは大体理解できた。


もちろん、つまらない講義も多かった。

ぼそぼそ独り言を言ってるみたいで、誰も話を聞いていないような講師もいる。

アマリリス自身が民族離散の身の上にあるためか、或いはもともとの嗜好性か、社会学や国政論のような話は興味が持てなかった。


好んで顔を出したのは、基礎的な自然科学の講義で、主に専門以外の学生のために、地理や天文、博物学などを教えていた。


この惑星が小さなチリに思えるような遠い天体の物語は、まるで自分が肉体を離れて、全宇宙のあらゆる空間に浸透する幽霊となったような感覚だったし、

見たこともない遠い国の風土、そこに生息する風変わりな生き物――海に生えるという森、芳香のかわりに腐敗臭で虫を呼び寄せて受粉する巨大な花だけの植物、

砂漠の地中深く根を下ろし、何千年も生き続けるために、巨大な塚のようになった柳の木などの話は、まるでおとぎ話を聞くようだ。


なかでも一番話に引き込まれたのは、これも意外なことに、オニキス・クリプトメリア教授の生体旋律基礎論だった。


「さて諸君。

先週までの講義で、我々は生体旋律が、どのような機構により、実際に生物体の表出型としてインタープリテイトされるかを見てきた。

ではここで、そもそも何故この世界に、生体旋律なる特異な音楽が発生するに到ったかという、やや存在論的な主題を扱ってみるとしよう。」


家ではパンツ1枚でタバコをくわえて歩き回り、ファーベルに怒鳴られているようなクリプトメリアの、こんな調子の話し方が面白いだけだったのかもしれない。


「何が特異であるか。

基礎物理学の講座を受講された諸姉諸兄は、秩序不可逆律について学んだことと思う。

覆水は盆に還らず、燃え尽きた灰に、彼が放出した熱量を取り戻し、火をおこすことは出来ず、坂道を転がり落ちた石は、谷底から転げ上がってくることはない。

およそ、全宇宙のあらゆる実体は、不安定から安定へ、複雑から単純へ、秩序から無秩序へと向かい、その逆は起こり得ないというのがこの法則の趣旨である。


では、宇宙の実体のひとつである我々生物にもこの法則は適用されているのか。

一見するに否である。


はじめ、この地表は単純な状態にあった。

草もなく、虫の一匹もおらず、死に絶えた、否、死と呼ばれるものすら存在しない世界であった。

そこから我々とその同胞、ありとあらゆる多様性と複雑性を備えた実体が創出されてきたのである。」


早口で喋り続け、板書もせず、教科書も開かず(ついでに出席もとらず)、試験の評点は極めて厳しいという評判のクリプトメリアの講義を、まわりの学生たちは必死にノートに控えているが、こちらは頬杖をついて聞き流しているだけだから、気楽なものだ。


「この恒星系をひとつの総体として捉えるならば、秩序不可逆律は何一つ破られておらぬ。

無尽蔵の熱源かと思われる太陽は、緩慢に、しかし確実にその身を細め、我々は、放出される熱量に炙られ、あたかも沸騰する蒸気に踊らされる小石のごとく、この惑星の地表を蠢いているにすぎない。

その我々が、自らの意思の所為として、谷底に落ちた石を山の頂きに運び上げることが出来る。

これは何故なのか。


我々はここに、この自明なる問いに、命題の所在を認めなければならない。

諸先輩が未だ解答を与えていないこの命題に対し、諸君が果敢に取り組まれることを祈念して、本日の講義を終了するものとする。」


ありがたいことに、クリプトメリア博士の講義は、いつも終わるのが早かった。


それでも時々、だれもいなくなった講堂で眠っているところを起こされ、その後はたいてい二人で居酒屋に繰り出した。

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