第13話 サモワールの湯気;AM7:00

まだ薄暗いキッチンに、サモワールの上蓋から漏れる湯気が微かに立ち昇る。

この時間、日はもう出ているのだが、建物の密集するマグノリアでは、家々の軒を越えて陽が差し込むようになるには、もうしばらく待たなければならない。


電燈の明かりの下、ファーベルは小さなまな板とフライパンを駆使して、朝食と、昼食のお弁当の準備を進める。

炒り卵とベーコン、野菜をふんだんに使ったサンドイッチが昼食の主役であり、朝食は、ランチボックスに詰めた残りのサンドイッチと、昨夜のシチューの残り、果物にチャイ。


ファーベルの朝は早い。

5時半起きだ。

眠い目をこすりながら、準備と、朝食と、片付け。

それが済んだら着替えて、7時には家を出る。


坂下の停留所から、セレブリャノエ=サズベジェとは逆方向の市電に乗り、通学している師範学校までは30分ほど。

朝礼が始まるのは8時10分からなのだが、自分が遅刻することなど考えるのも忌まわしいファーベルは、

市電が遅れるとか、途中で気分が悪くなるとか、何かアクシデントがあっても”ゼッタイに”遅刻しない余裕を見込んで行動する。


しかし、どれだけ余裕を持って、心穏やかに過ごしたいと願っていても、都会の朝というものは常に慌ただしい。

実際には家事の負担は、トワトワトにいた時に比べれば大きく軽減されている、

あちらでは粉を捏ねるところから始めて竈で焼いていたパンは、徒歩50mほどのパン屋さんで手に入るし、コンロは栓を開けてマッチを擦ればすぐに使えるガス、

サモワールを沸かすのも炭ではなく、スイッチひとつの電気、水は蛇口をひねれば出てくる。


それだけの至便さがあってなお、こうして朝の家事と着替えを済ませ、少しだけ時間があるのを見つけてホッと一息つく時に束の間解放される、

心を亡くすと書いて忙しいと読むたぐいの忙しさ。


便利だし、イイこともいっぱいあるんだけどね、果物とか牛乳とかいつでも手に入るし。

テーブルの上のバスケットに盛られたブドウにリンゴ、オレンジといったフルーツの鮮やかな色彩と、

毎朝夜明け前に配達人が届けてくれる、瓶に入った真っ白な牛乳は、都市の朝に忙殺されるファーベルの心を和らげてくれた。


時計が7時を打ち、ちょうどファーベルが家を出る頃に、ヘリアンサスが3階の自室から降りてくる。

既に着替えは済ませている。

真っ白なシャツに黒いベストを身につけ、髪を梳かした姿は、アマリリスも絶賛だったが、ファーベルから見てももちろんカッコいい。


「あっ、今朝は会えたね。

おはよ。」


「おはよー。

もう行くの?いつも早いねぇ。」


黒い、スモックのような簡素な作りの制服に、最近伸ばしはじめた髪を束ねる白いリボンを頭のてっぺんで結び、

背負カバンをしょってお弁当のバスケットを提げたファーベルは、アマリリスから冷やかされるまでもなく、

ヘリアンサスから見てももちろんかわいい。


ただ、2人はそれを口に出さないだけだ。

アマリリスのように、思ったことを何でもすぐに言うばかりが、人と人の関係のあり方ではないとわきまえているのだ。


「サンドイッチあるから食べてって。

あとサモワールもまだあったかいと思うよ。

じゃね、行ってきまぁす。」


「いってらっしゃーい。」


本当は、もっと早起きしてでも、お弁当を作って持たせてあげたいのだけれど、、

マグノリアでの新しい生活がはじまった時、ヘリアンサスもクリプトメリアも、そんなことのために貴重な学業や睡眠の時間を削るには及ばぬと、

彼らなりの配慮であり、ファーベルは若干寂しい思いもあったが、昼は外食で済ます習慣が定着していた。


2人のすれ違いざまの朝の挨拶が済んで、再び沈黙の降りたリビングで、ヘリアンサスは独り朝食をとる。

ファーベルが作っていってくれたサンドイッチは、2人分の朝食には物足りない量。

いいや、早いもの勝ちだ。


この後リビングに現れるのは、都会の朝の慌ただしさなどには無縁の御仁がお1人に、

無縁ではないはずだが、どこか超然としているというか、ブレないマイペースのあの人。

いつもどおり、自分のことは自分で何とかするだろう。


ヴヌートリ=クルーガの官庁街、坂道のアパートから、市電に乗ってマグノリア要塞の内堀をぐるっと回った位置にあるヘリアンサスの職場の、始業は9時。

ファーベルほどではないにせよ、彼も時間に余裕があるわけではない。

今日も美味しいファーベルの手料理を、ゆっくり味わう暇もなく頬張り、瓶からコップに注いだ牛乳で流し込む。


ふと、テーブルの隅に置かれたハンカチに目が止まった。

おや、ファーベルの忘れ物だろうか。

珍しい、よほど忙しかったんだろうな。


追いかけて届けようかとも思ったが、時間的にもう市電に乗っているだろうと考えて諦めた。

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