10 エヴァリスト夫妻の帰還

 雲一つない青空の下、ヘルタート山脈から夫婦そろって下山すると、エヴァリスト邸では大騒ぎになっていた。なにしろ葬儀の最中に未亡人となったアンジュが大雨の中飛び出して行って帰ってこなかったのである。


 そこに死んだはずだったエヴァリスト公爵が現れ騒ぎはいっそう加速した。


「っ、隊長〰〰〰! ほんとに生きてる、嬉しいけどなんでぇ……?」

「俺ぇもう無理だっ、隊長喜びの抱擁を」

「要らん」


 いまもテントの付近で男泣きしていた隊員たちが、興奮して駆け寄って来た。

 カイルは「暑苦しい」と眉を顰めていたがまんざらでもなさそうに見えたのでくすりとアンジュは微笑んだ。

 屋敷の中へと入ると、執事を始めとした使用人たちが生還した主人を出迎えた。気の弱いメイドなどはカイルの姿を見て卒倒しかけたくらいだった。


「だ、旦那様……お亡くなりになられたはずでは……⁉」

「……その前に言うことがあるだろう?」

「お、お帰りなさいませ!」


 そうじゃないだろう――?

 カイルの冷ややかな一瞥に使用人たちは竦みあがった。


「アンジュがいままでどこにいたと思う? ヘルタート山脈だぞ……どうして行かせた」

「申し訳、ございません……目を離したすきに、アンジュ様が出て行かれたとエリュシア様に」


 ちら、と使用人の一団の後ろにいたエリュシアにカイルは目を向けた。エリュシアは目に涙をいっぱいに溜め、申し訳ございませんとその場に座り込んでしまった。


「カイル、もういいじゃないですか」

「どこが――結果として君が無事だったから良いものの、何かあったら大変だっただろう……大体アンジュ、君も無茶しすぎだ!」


 カイルはアンジュにも怒っているらしい。ぎろりと睨まれて、思わずびくっとしてしまう。詰め寄られ腕を掴まれると目の前に端正な顔が迫った。


「……ふふ、あははははは! ああもう駄目だ。君の可愛い顔を見ているとキスがしたくなってしまって怒りが持続しない」

「なんですか、もう」


 カイルが腹を抱えて笑い始めたことをきっかけに張り詰めていた空気が一気に緩んだ。雪が解けるように、静かに温かな空気が屋敷の中に流れ始める。主人の帰還を喜んで、季節を飛び越してエヴァリスト領に春がやって来たかのようだった。


「とりあえずおふたりともお着替えを。御召し物がドロドロです。風呂の準備を」


 いま思い出した、というようにカイルとアンジュはお互いの恰好を見合って、ほぼ同時に噴き出した。あまりにひどい姿だったのである。お互い泥に塗れているし、カイルの軍服のマントは裂かれてボロボロに。アンジュのロングコートの毛皮もびしょびしょに濡れたせいでへたっていたし、ドレスの裾がほつれ、ところどころびりびりに裂けていた。


 湯浴みをさせてもらったあと、ゆっくりしてくださいとルースに寝室に送り出されると、既に着替えたカイルが待っていた。

 もう顔に泥跳ねがないことを確かめ、ふふと吐息をこぼすようにしてアンジュは笑った。すると「君の可愛い黒子がなくなったね」と目の下あたりに触れながらカイルが言った。どうやらお互いおなじようなことを考えていたらしい。


 ベッドの淵に並んで腰かけると、アンジュは意を決して口を開いた。


「……私、もう聖女の力を使えないようなのです」


 先ほど自分の擦り傷を治癒させてみようとしたら、何も出来なかった。どうやら薄々気が付いていたのだが――アンジュはすべての力を使い果たしてしまったようだった。身体の中から、ずっと一緒にいてくれた存在が消えてしまったような喪失感がある。 


 さぞカイルは失望することだろうと思っていたのだが、反応は予想と大きく異なっていた。


「そっか。それじゃあもうなんの言い訳をせず、君を抱けるというわけだ」

「え……? ふぁ――んぅ!」


 熱い熱が唇を通して伝わって来る。いきなり口づけられてアンジュは頭の中が真っ白になった。ようやく解放されたとき、カイルの瞳は夜空を映したような深い藍色をしているように見えた。


「ま、待ってください……! っあ」

「待たない。もう随分待ったからね」


 ぽすん、とベッドに横たえられる。じれったそうにシャツを脱ぎ、放り捨てるとカイルが覆いかぶさって来た。新婚初夜のときとおなじで、二回目のはずなのにやたら緊張してしまう。

 するとそのとき、あることにアンジュは気づいた。


「カイル……胸の傷が」

「うん。きっと君が、すべての力を使ってレーヴァテインを浄化してくれたんだろう……ごめん。大切な能力を俺なんかのために」

「いいえ」


 いまは痕さえも残っていないカイルの胸を、指でなぞりながらアンジュは言った。


「よかったです……本当に」

「ありがとう」


 アンジュはカイルの首に腕を回して引き寄せた。あのヘルタート山脈でしたときのように。それでもあれの数倍どきどきしている。


「あなたが、此処にいて。私が此処にいる……それがこんなにも嬉しいことだなんて思いもしませんでした」


 カイルはアンジュの額にキスを落とした。


「ごめんね」

「ええ、とても心配しました。でも――いま、あなたを抱きしめられる。それでもうどうでもいいと思ってしまうんです」


 はだけさせられた夜着はシーツの脇にほうってしまって、くすくす笑いながら抱き合った。カイルの鼓動とアンジュの鼓動がじょじょに重なってひとつになる。

 それが心地好くて、愛おしくてアンジュは目を閉じた。

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