08 悪竜
「……いない」
隊員たちから聞いていた情報を頼りにアンジュはひたすらにヘルタート山を登り続け、野営を行っていたという洞窟までたどり着いた。
しんと静まり返った洞窟内部には人の気配はなく、そこで雨風を凌いでいたという痕跡だけが見当たるばかりだった。
何時間、何日かかったのかもわからない。屋敷を出てからどれほどの時が経ったのかアンジュはわからなかった。途中何度か黒い靄のようなものがとびかかって来たが、アンジュに近づいた途端はじけ飛んで消えた。
おそらく弱った悪獣か何かだったのだろうがそれらに構っている余裕などなかった。
雨はやがて雪に変わっていた。
アンジュはカイルが落ちていったという谷底を覗き込み、息を吐いた。この下には深く濃密な闇が広がっている。生き物の咆哮なのか風の音なのか判別がつかない物音がこの断崖の下から響き渡りヘルタート山脈じゅうにこだましていた。
「……聖女の力がもし、本当にあるのなら私に力を――お与えください」
アンジュは目を閉じ祈った。じわじわと身の内から温かな光が満ち溢れてくるのがわかる。
――アンジュ、あなたなら大丈夫。
聞いたことがないはずなのに懐かしい声が聞こえた気がした。顔を合わせたこともないのに、アンジュはそれが誰なのか知っている。彼女はずっと自分の中にいたのだ。
「……おかあ、さん?」
そのとき地の底から激しい風が巻き起こり、崖のふちに立っていたアンジュはバランスを崩した。よろけ、足を踏み外し――よろめいた身体全体が宙に踊った。
あ、という声は谷底へと吸い込まれていった。
落ちる。
落ちた。
覚悟していたはずだが、落下の衝撃はいつまで経っても襲っては来なかった。
ぎゅっと瞑っていた瞼を恐る恐る開けると、アンジュはゆっくりと谷底へと下降していることに気付いた。ふわりふわりと綿毛のように風に乗り、または水中を漂う海月のように静かに漂っている。
そのゆるやかな落下の終着が近づくと、アンジュは体勢を整え、足をぴんと伸ばした。そして、とん、と軽い音ともに谷底に着地する。
深い裂け目のようになっていた谷底は夜よりも昏く、濃密な闇が満ちていた。周囲の何もかもが闇に溶けてどこに何があるのかもわからないぐらいだ。
そのとき大地を揺るがすような唸り声が響いた。その声の中に、よく知るものの声音が混じっているような気がしてハッとする。
アンジュは恐る恐る声のする方へ歩みを進めていった。
ぐるるう、と呻く声は助けを求めているようにも聞こえた。低い声音にまじる苦悩に胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
掠れた声でアンジュは、探している者の名を呼んだ。
「カイル……」
すると闇を切り取りさらになお漆黒の巨大な影がぬうっと眼前に現れた。
それは巨躯の竜だった。
水面のごとく揺らめく揺らめく黒き焔を纏いながら、呻き声を上げている。その姿を見てアンジュは直感した。
「あなたはカイルなのですね?」
咆哮が応えなのかはわからない。それでも竜は漆黒の身体を揺らしながらぐるるうと叫んでいた。おそるおそるアンジュが手を伸ばすと、巨大な口を開いて吠えた。これ以上近寄るな、と言っているようにも思われた。
「あなたがレーヴァテインに呑まれてしまった、そんな筈がないでしょう――あなたはカイルです。カイルは生きています」
ぐるぉおん、と竜は哭いた。
長い首を左右に振り、脅かすようにアンジュの眼前に鋭い爪を向けた。帰れ、と言っているようにも思われた。頬を掠め、流れた血が闇の中に滴り落ちる。
構うことなくアンジュは漆黒の竜に向かって足を進めた。大きな身体を震わせながら威嚇されても構うことなく一歩ずつ距離を詰めていく。そして触れられる距離までたどり着くと竜の長い首にぎゅっとアンジュはしがみついた。
触れられるのを嫌がって激しく抵抗するのがわかった。竜の鱗は棘のように鋭く尖っていて触れるだけでアンジュの服を切り裂き、肌を傷つける。痛みは感じなかった。ただひたすらに冷たくて熱いものがアンジュの身体の中に流れ込んでくるのがわかった。
それは恐怖であり、怒りであり、悲しみだった。
『俺は誰からも愛されない』
『俺は誰からも愛されない』
『俺は誰からも愛されない』
魂に刻まれた傷は、竜にとっての呪いだった。
愛されたい。愛されたい。愛されたい。全身で叫んでいるのに愛されることを本能で拒んでいる。
「カイル!」
カイルはアンジュの下で暴れ狂ったが離さず掴み、抱きしめ続けた。
全身が竜の鱗から噴き出される煤で真っ黒になりながらも、黒い焔に巻かれ火傷寸前になろうともアンジュはカイルをつかまえて彼の名前を呼んでいた。カイル、と。確かめるように……思い出してもらえるまで、何度も。
「私がいます」
涙で揺れる声でアンジュはつぶやいた。
「私はあなたのそばにいます」
ぐる、と喉を震わせた竜は泣いているようにも思われた。
アンジュの腕の中でそれはかたちを変え、ちいさな鼠ほどの大きさにもなり、触れただけで砕けてしまう脆い灰にもなった。それでもアンジュはこの腕の中にいるものが夫であると信じて疑わなかった。
すべてレーヴァテインが見せる幻なのだと気づいていたのだ。
最後に竜は黒焔そのものとなって黒く猛々しく燃え盛り始めた。手が爛れようとも激しい熱に呑み込まれようとも、アンジュは決してカイルから手を放さなかった。
はらはらと闇の中の唯一の色味となって、六花が舞い落ちていた。
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