07 悲報
ヘルタート山脈において雨はまだ降り続き、やがてエヴァリスト邸まで黒雲は及んだ。それどころかエヴァリスト領全土に分厚い黒雲が立ち込め、誰もが安全な家屋へと引っ込むような事態だった。
「奥様、討伐部隊の皆さんがお戻りになられました!」
執事の呼び声で執務室で気もそぞろに書類を整理していたアンジュは慌てて扉を開けると、階段を駆け下りた。玄関ホールには雨で濡れそぼった武具を纏った部隊の隊員たちと衰弱しきったようすのエリュシアが立っていた。
「皆さま、お勤めご苦労様です――夫の、カイルの姿が見えませんがどちらに?」
アンジュの一言で、エリュシアがわっと激しく泣き出してしまった。そのまま泣き崩れてしまいそうになった彼女を屋敷の使用人が支えた。
「どうなさったのですか、エリュシア嬢……!」
尋ねても首を振るばかりで要領を得ない。その間、隊員たちは気まずそうに俯いていた。
「……カイルはどうしたのですか、どなたか教えてください」
アンジュからの問いかけに隊員たちは顔を見合わせ、黙りこくった。
エリュシアの引きつけを起こしたような泣き声だけが広間に響いていた。すると隊員たちが機敏な動きでアンジュの前に跪き、高貴な人物に対する最も深い礼を取った。おそらくカイルの腹心であった隊員がまっすぐにアンジュを見上げ、口を開いた。
「隊長は」
「亡くなりました」
亡くなりました、と
「突如として目の前に現れた――黒い巨大な竜の悪獣に呑まれて……一瞬のことで、我々も動くことが出来ませんでした」
「そのまま竜と共に谷底へと落ちていったのです」
その知らせを聞いて、茫然としたまま屋敷にいた誰もが身動きが出来なかった。一言でも何か口にすればその恐ろしい現実が真実へと変わってしまう、そんな予感がしたのだった。
討伐部隊が帰還して数日後、アンジュは黒のドレスに袖を通した。
そんなに着る機会はないだろうけど、と笑いながら、でも一応ねとオーダーした喪服は胸と腹囲のサイズが合わなくなっていた。近頃、あまり奥様お召し上がりにならないから――とすすり泣きながらルースが言った。
アンジュにとって黒は彼そのものをあらわす色だった。彼の色を纏うと、カイルを近くに感じる気がした。
雨はまだ降り続いていた。
屋敷に運び込まれた空の棺には主人の代わりにむせ返るほどの百合の花が詰め込まれた。愛用の剣も何もない――すべてカイルが持って行ってしまったから。
いっそ代わりに私が中に入ろうかしら。そんなふうに言うと、ルースや執事が「冗談でも言っていいことと悪いことがございます」と声を揃えて怒った。そして、泣いた。
空の棺は埋葬される前に、邸宅内の礼拝堂に納められた。そして、七日間のあいだ死者の魂が天に召されるまで棺につきっきりで見守るのである。昇天の瞬間を親族が見届けるのが習わしであった。
礼拝堂には氷結魔術がかけられており、遺体が腐敗しないように取りはかられているが――ひたすらに寒い。黒い服の上にアンジュは分厚い毛皮のコートを着込んで、棺に抱き着くようにして蹲った。
一度お部屋に戻られては、と使用人たちは代わる代わる奥様に声を掛けていたのだが身じろぎひとつせず、アンジュは棺を見つめていた。
四日が経過したとき、ふらりとエリュシアが礼拝堂に現れた。
「アンジュ様……」
そう呼びかけたエリュシアは泣き腫らした
「申し訳ございません、私がいけないのです、私の力のせいで黒竜公は」
生気のない瞳で少女二人が見つめ合い、引きつったような表情のままエリュシアは語り始めた。
自分には悪獣を操る力があるのだ、ということ。それを使って王都にも悪獣を呼び寄せてしまったことをアンジュにこの冷え切った礼拝堂で懺悔した。
「そう――あれは確か新月の夜だったと思います。いきなり黒竜公が胸を掻きむしり苦しみ始めて。私、それを見て思ってしまいましたの……そのままいっそ、黒竜公が亡くなってしまえばいいのに、と!」
まさかそれが叶ってしまうなんて、と蒼褪めた表情で呟き、さめざめと泣いた。
「私がそう思った瞬間に、黒竜公が黒く禍々しい巨大な影に、悪獣に呑み込まれるのを見ました――私の、私の力のせいで黒竜公は――」
エリュシアの震える手を掴んでアンジュは「それで?」と強い口調で尋ねた。
「えっ……?」
「もっと詳しく教えてください。そのあと、カイルはどうなったのですか」
「あ……洞窟の外に出て、身体から黒い煙のようなものを吐き出しながら悪獣と共に崖の下へ落ちて良くのを見ましたわ――アンジュ様、どちらへ⁉」
エリュシアの声を振り切るようにしてアンジュは走り出した。エヴァリスト邸のドアを勢いよく開き、真後ろにそびえたつヘルタート山脈を見遣った。黒い毛皮のコートが雨に打たれてびしょびしょになっている。
アンジュは構うことなく雨の中駆けだした。びしゃりと泥が撥ねて漆黒のコートが汚れる。髪が張り付き視界を塞ぐ中、一心に向かったのは山道だった。土砂が崩れた悪路もお構いなしにひた進んだ。
足を取られて派手に転ぶと、コートも中に着ているドレスも泥に塗れた。それでもなおアンジュは走り続けた。
その先に――カイルがいることを信じて。
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