06 新月
「ひどい有様だな……」
「このままじゃ下山も出来ないぞ」
ぼそぼそと小声で隊員たちが言葉を交わしているのをカイルは苦々しい表情を浮かべて見つめていた。連日続いた雨で活動は制限されていることだし、ヘルタート山脈を下山してエヴァリスト邸まで戻ることとする――そう指揮するはずだったのだが。
行きに使用した道を大雨の影響で転がり落ちてきた大岩や倒木が塞いでおり、通行が出来ない状態になってしまったのだった。
雨の中の作業は遅々として進まない。少しずつ撤去作業を進めては拠点である洞窟へと戻るのを繰り返して早十日が経過していた。
カイルは立ち込める黒雲を睨み、腕組みをした。食料はまだ余裕があるがこのままでは士気も下がる一方である。エリュシアは洞窟で休ませているのだが日に日に元気がなくなってきているのが見てとれた。
せめて雨さえ止んでくれれば。そんなカイルの願いは通じることなく、しとどに雨は降り続いている。
ただそれ以外にも、問題があった。
――新月が近づいているのだ。
近頃はアンジュの聖力による治癒を受けていたからそれに甘えすぎていたことを思い知る。たったひとりでレーヴァテインが自らの内側で暴れ回るかのような苦しみに耐えなければならないことを思うと、カイルはずんと気が重くなった。
ただそれ以上に、いかに自分が弱くなったかを思い知った。いまやアンジュなしの人生など考えられない。不思議なものだと思う。
それでも胸の内側で冷ややかな声が囁いてくるのだ。
もし仮に――アンジュの聖力が尽きたら、彼女の手を放すのだろう、と。
彼女とのつながりは聖なる力を通してのものであって、普通の……どこにでもいるような夫婦に戻ることが出来るのか、と。打算的な胸の中に巣食う邪な己が静かに問いかけてくる。
アンジュの代わりが目の前に現れたら、その手を取るのではないか、と。
自らの苦痛を和らげるためだけに、何もかも捨て差し出すのだろう。お前はさほど上等な人間ではない。なあ、
しばらく黙考した後に、激しい雨に打たれながらカイルは頭を振った。
「黙れレーヴァテイン……代わりなんているはずがないだろう。俺の妻はただひとりだ――何が起きようと、永遠に」
隊長、と呼ぶ声に応じてカイルは隊員たちのもとへと駆け寄った。
早く帰らなくては、早く帰ってアンジュの顔が見たい。
――アンジュに会いたい。
雷鳴が轟く中、口の中で呟いたその想いは誰にも届くことなく溶けて消えた。
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先の討伐とは異なり、カイルたちは山に入って数日経過しても帰ってこなかった。寝室のバルコニーで山にかかった黒い雲を見つめながらアンジュはつぶやいた。あのようすでは山ではひどく雨が降っていることだろう。麓のエヴァリスト邸の付近は薄く雲が張ってはいるが、つめたい星の光が地上に影を落としている。
ただ、この夜空をひとりきりで眺めいるからかひどくさみしいもののように感じられてしまった。
「どうして帰ってこないの……カイル」
指を組み合わせ、吐息で指を温めながらアンジュは夫の無事を祈った。無事に決まっているのにどうして弱気になるの、と叱咤しながら窓辺を離れ大きなベッドに横たわる。横たわるべきもう一人分の空白をいやおうなしに意識させるから眠りにつくことが嫌いになりそうだった。
やがて月がない夜が来ても、カイルは帰還しなかった。
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