02 帰還

 カイルがいない間、アンジュはエヴァリスト領の女主人として必要となる仕事を学びつつあった。家事使用人たちの采配にとどまらず、不在の間は悪獣被害の被災地の支援活動に勤しむ隊員たちへの物資の支給に対する指示など、やるべきことはたくさんある。


「アンジュ様、復興支援班から報告が上がりました」

「ええ、いま行きます」

「アンジュ様、それが終わりましたら此方で確認を……」


 ドレスの裾を翻し奔走するアンジュの姿を見て、使用人たちの評価は徐々に上がっていったらしい。此方から声をかけるまでつん、とすまして置物のようになっていた彼らの中にも、話しかけてくれる者も増えた。

 忙しくはあったが頼られ、必要とされることの喜びをアンジュは嚙みしめていた。


 アンジュが日々に忙殺されているあいだに、悪獣討伐部隊がヘルタート山脈からあっさり帰って来た。


 予想より帰還が早かったため、アンジュは急ぎ宴の準備を使用人たちに指示した。不慣れなためあまり手際よく準備は出来なかったものの、相応の食事を手配することが叶った。テントを張って駐屯している隊員たちにも含めて葡萄酒と温かな肉料理を配り終えたのは日暮れ間際だった。


 広大なエヴァリスト邸の敷地内でささやかな酒宴を楽しむ様子を眺めながらアンジュは一息ついた。ぱちぱちと薪の爆ぜる音が快い。ストール一枚上に羽織っているだけでは少し肌寒くなる時間帯だった。

 屋敷の裏手にそびえたつヘルタート山脈は闇の中に沈んでいてもその存在感がさらに増していて、不気味である。耳をすませば悪獣の足音が聞こえてきそうな気さえしてしまう。


 エリュシアは体調がすぐれないらしくここしばらく部屋にこもっている。心配ではあるのだが――アンジュが部屋を訪ねても「大丈夫だ」と室内にも入れてもらえず追い返されてしまうことが続いていた。


「ルース、エリュシア嬢のところに食事を持って行くよう頼んでくれる?」

「かしこまりました。手配いたします」


 ルースがアンジュのもとを離れたすきを見計らうようにして、ぐいと腰を掴んで引き寄せてくる不埒者がいた。

 エヴァリスト公爵夫人にそのような真似をする怖いもの知らずはこの屋敷の中でたったひとりしかいない。


「へえ。さすがは俺の奥さん。堂々とした采配だね」

「もうっ、お世辞は不要ですのでその手をお離しいただけますか……⁉」


 べし、と大きな手を叩いたものの離してくれる気配はなかった。

 それどころか、はあ、と深いため息とともに鼻をアンジュの首筋に押し当ててにおいをすんすん嗅いできた。


「な――」

「花のにおいがする。香油かな? でもお菓子のにおいにも似ているような……」


 とにかく甘い、とカイルは断言した。甘いにおいと言われて心当たりがまるでないアンジュは首を傾げるばかりだ。


「し、知りません……!」

「舐めてみたらわかるかな? いいよね」


 良いわけがあるか。

 全力でぐいぐい押して抵抗したらようやく解放してくれたが胸の動悸が収まらなかった。まったく何を考えているんだ、このひとは。どうせ誰も見ていないよ、などと軽く言ってきたがそういう問題でもない。


「ねえ、アンジュ……このあと少し俺に時間をくれないか」

「……わかりました」


 顔の熱りを誤魔化すようにカイルからふいと視線を逸らしたが、特に何も指摘されなかったのでアンジュは怪訝に思った。

 いつもならアンジュが照れていることを揶揄ってくるはずなのに――カイルは、どこか疲弊した様子で遠くを見つめていた。

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