第四章 浄化の聖焔

01 聖女の加護

 少女には秘密の能力ちからがあった。


 あそこに黒いモノが見えるわ。ほら、あそこよ。部屋の隅に――見えるでしょう?


 幼い頃はそのせいで周囲から奇異な目で見られ、きょうだいたちからは薄気味悪い子、化物とさえ呼ばれていた。

 そんな奇妙なものが見えるだなんて、よそでも、うちでも二度と言ってはいけません。母の言葉にすなおに少女は頷き、口を噤んだ。

 末娘である少女はきょうだいたちからも仲間外れにされ、いつもひとりぼっちだった。


『だいじょうぶ おまえには わたしたちがいる』


 唯一、彼女に優しく語り掛けてきたのは彼女にだけ見えるほの暗い闇だけだった。


 世間一般では「悪」と呼ばれているそれらのことを少女は愛した。そもそもそれらが「悪」であることを彼女は知らなかったのだ。

 黒く静かで狡猾で、でも自分にだけは従順な獣。

 漆黒で痩躯の馬や、群れを成して飛ぶ鴉――それらは他人の目には見えない塵として少女に付き従った。少女が与えた愛に報いろうとする健気さを少女はまた愛した。


 最初は些細ないたずらにすぎなかった。きょうだいたちを脅かして怖がらせるのに協力してもらったり、意地悪な使用人たちの仕事を増やしたりしてやった。それぐらいでじゅうぶん満足だった。


「あなたには才能があるわ」


 でも美しい叔母が少女にそう言ったとき、白と黒の単調に描かれていた世界がいっぺんに鮮やかに彩られた想いがしたのだ。少女は初めて自分が認められた喜びに胸が震えた。


 叔母は聖女と呼ばれていた特別な存在で、常に光り輝いていた。

 きょうだいたちも叔母のことが大好きで、屋敷を訪れた際にはくっついて離れようとしないのを少女は遠巻きから眺めているばかりだった。


「あなた、わたくしの娘におなりなさいな。わたくしのために力を尽くして頂戴」


 はい、お義母さま。よろこんで、あなたのために私はすべてを捧げます。少女はそう言って夢のような生活を始めた。叔母が光り輝くための影として立ち居振る舞い、その代わり彼女の「聖力」について勉強をさせてもらう日々が続いた。


 成長するにつれて敏い少女は、叔母の力が単なる支援魔術や治癒魔術の一種であることに気付いたが口に出すことなく、従順に力を尽くした。そしてその力について学びながらも、昔から彼女に従順に付き従った闇たちのことを上手く操ることができるようになるまで成長したのだった。


「初めまして、美しいお嬢さん。ああ――空から天使が降って来たかと思いました」


 甘い砂糖菓子に蜂蜜を振りかけたような糖度のその言葉が、自分にまさか向けられているとは信じられなかった。何度か夜会でお見かけしたことがある方、黒の軍服が誰よりお似合いのあの方。いつも美しい男女を侍らせている人気者。

 彼の碧い眸に自分だけが映っていたあの瞬間に勝る喜びはいままで存在しなかった。その瞬間、少女は彼に恋をした。黒竜公と呼ばれるあの男性に、一目惚れをしたのだ。


 それなのに、彼は――少女ではなく別の女性を伴侶として選んだ。

 美しくはあるがいわくつきの女性だ。彼女は彼にふさわしくはない。むしろ自分の方が――そんな思いが芽生えてからというもの、彼女の眷属となった闇たちは活発に動き始めた。


『あれが じゃま なんだろう』

『こわして しまおう』


 だめよ、やめて。これ以上そんなことをしないで。少女がいくら叫んでも闇たちは止まらなかった。憎き娘に対して殺意を込めてぶつかっていく。

 でも負けるのはきまって闇たちだった。彼女が常に、あの方に守られていたから。

 もう憎むのはやめよう。私ではだめなのだ。

 とっくに頭では理解している。


 つもりだった、のに。



*.˚‧º‧┈┈┈┈┈┈┈┈┈‧º·˚.*



 悪獣討伐に向けてヘルタート山脈に赴くため遠征してきたのはカイルが直々に指揮する第二連隊のみであった。

 その他の連隊は近頃、活動が活発化している悪獣が王都周辺に現れたときのために待機していた。肝心の王都の守護を緩めるわけにはいかない、という王国軍本体の判断である。


 およそ千人にもわたる第二連隊の集団の内、実際に悪獣を狩るために山に入るのは少数精鋭であり――ほかの部隊は領内に残る悪獣による獣害被害の復旧対応と、討伐部隊の本拠地であるエヴァリスト邸の警護に当たっていた。


「皆様に加護を」


 エリュシアが手にしていた長杖を眼前に跪いた隊員たちの頭上に振ると、きらきらと光の粉が降り注いだ。おお、とそれを見ていたヘルタートには入らない隊員たちから感嘆の声が上がった。


「これが聖女の力なのか」

「エリュシア嬢がフレイヤ様の後継者であるという話は本当だったんだな」


 ぼそぼそと隊員たちの間で交わされる言葉を聞いてエリュシアは気まずそうに俯いていた。


「感謝いたします、エリュシア嬢。これで我らも無事に帰還できるでしょう」

「は、はい……お気をつけて」


 淑女の礼で応えたエリュシアをカイルが見つめているさまをアンジュは一歩下がったところから見ていた。なんだか胸の中がもやもやする。


 そしてその理由をアンジュも気づいてしまっているからこそ、気の利いた言葉ひとつ言えずに黙ってしまう。妙な顔をしているだろうとは思うのだが、唇に力を入れるのを止めてしまうともっと情けない顔をしてしまうような気がした。


「アンジュ」

「……なんでしょう、カイル」


 いつもどおりになんの感情も挟まず、普通に……頭の中で呪文のように唱えていたところで「俺、君からも祝福がほしいな」ととんでもないことを言いだした。


「な、何を……私は、聖女などでは」


 きょろきょろと周囲を見回した。人目がないところでならともかく、こんなにも自分たちに視線が集中している状況で加護を与えるような真似をすれば騒ぎになってしまうだろう。


「うん。わかってるよ――此処に、くれるかな?」


 カイルの長い指が唇のあたりを指し示したのでアンジュは赤面した。しかし言い出したら聞かないのが己の夫であることを重々承知していたので、アンジュは唇と頬のちょうど境目あたりを狙ってちゅ、と軽く音を立ててキスをした。


「物足りなそうな顔をしないでください」

「うん。いざしてもらうともっと欲しくなるのは計算外だった、なと思って」

「何を馬鹿な……んっ」


 人前だ、ということはカイルには関係がなかったらしい。

 アンジュとは違って確実に唇を攫っていったキスに隊員たちが口笛を吹いて囃し立てた。あまりにも恥ずかしい。ふと目が合ったエリュシアの表情が曇っていたのを見て、いっそう申し訳ない心地になった。


 どん、と強く突き飛ばしたところで嫌な顔ひとつしない。そもそも突き飛ばされてくれたのだ、ということも理解わかってしまうのが悔しい。へらへら笑いながらも出立した部隊を見送り、アンジュとエリュシアはともに屋敷の中に入っていったのだった。

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