05 夫婦
「国王陛下は、また悪獣討伐遠征を指揮しろ、と仰せだ」
カイルはグラスをぼんやりと眺めながら言った。
「防護壁にかけた聖女の加護が弱まっている、と聖都ラウムの御仁たちはのたまっているらしい――毎年のように王都エリッセからフレイヤがエヴァリスト領内に赴いて、ヘルタ―ト山脈とのあいだの壁に防御強化の加護を掛け直しているにもかかわらず、ね」
疲弊した
「以前から、聖女フレイヤが偽物ではないかという噂はあったんだよ」
「そんな……」
フレイヤ・グリーデ……あの自信たっぷりのようすを見ていてそんな疑いを持つ人がいるとは意外だった――多くのひとたちからも崇められているのに。
「フレイヤが加護、と言っているのは魔術師が戦闘時にかける支援魔術と大差がない。効果も目を瞠るほどでもないし、適応時間も短いんだ。遠征への出立前に王都で加護を受けたところで、実際にヘルタート山脈に足を踏み入れた頃には効果が切れている」
「それならいままで、カイル様はご自身の力のみで悪獣の討伐を――」
声を失ったアンジュを見て、カイルは肩を竦める。
俺みたいな疑り深い奴以外は誰も気にしていないと思うけどね、なんて軽口を叩いた。
「フレイヤがグリーデ侯爵家の者だから誰も強くは追及できずにはいたが……俺も君の聖力を見て、彼女の力とは別だと感じた。いま彼女を……いや侯爵家を追及するのは時間の無駄でしかないからやめておくけれど」
カイルの指がアンジュの髪をそっと優しく梳いた。心地好さに思わず目を細め、静かに息を吐いたときカイルは言った。
「遠征の準備もあるから一度、俺はエヴァリスト領に戻るよ」
「そう、ですか」
まだアンジュはエヴァリストの地に足を踏み入れていない。王国の北部地域――エヴァリストは特に悪獣の棲み処となっているヘルタート山脈を有する。領民たちは常に危険と隣り合わせの生活をしているのだろう。
「君は王都の屋敷に残って……」
「行きます」
カイルのシャツの裾をぎゅっと掴んでアンジュは言った。
「私もエヴァリスト領についていかせてください」
駄目だ、とカイルはすぐに険しい表情で撥ね付けた。ぎり、と歯を食いしばったのがそばにいたからこそわかった。
「アンジュ……領内も悪獣の活動が活発になってきているとの報告が上がっている。危険だ、君は此処で待っていてほしい」
いつにない強い口調で言い切ったカイルにアンジュは首を横に振った。
「此間の夜のように、私にもできることがあります。それに遠征中も新月の晩があれば、私の力が必要になる筈です」
「それは――」
「お願いします、カイル」
腕を精一杯の力で掴んで彼の名を呼んだ。自分に何が出来るかはまだわからない。それでも彼を、彼だけで戦わせたくはなかった。勿論、共に行軍する仲間がいるのだとしても戦場ではどうしてもカイルはひとりきりだ。
ひとりで判断して、決めて、多くの兵の命を預かりながら悪獣を狩らなければならない。
ひとりで戦って、領民を、この国を守るために何度だって立ち上がらなければならない。
それならばせめて、出来るだけ近くで彼を支えられたら、と思ったのだ。
妻として。
「君はずるいな――こういうときに、閣下でも、他人行儀な『様』つきでもなくて――そのまま名前を呼ぶんだから」
「え、あぅ、そういうつもりでは……あの、カイルさ」
「じゃあさ、これからはずっとカイルって呼んでよ。そうしたら君に、エヴァリスト領までついてきてもらいたくなって仕方なくなるから」
「ふざけないでください」
「ふざけてなんかいないよ」
聞かせてよ、と甘く囁かれてつい、口が滑った。
「カイル……」
「うん」
「一緒に、ついていきます」
「絶対に屋敷から出ないこと。約束して」
「約束します」
じゃあ、決まりだとアンジュの肩を引き寄せてカイルは笑った。
「エヴァリストは寒いけど紅葉が綺麗なんだ。赤や黄色、オレンジに染まった山々は息を呑む美しさだ。君にも見せてあげたいよ」
「はい、楽しみに……していますね」
そしてあなたの無事を心から祈っています。続けて言おうとしていた言葉は口づけの中で呑み込まれてしまった。
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