04 帰宅
悪獣の王都エリッセへの侵入を受け、緊急に対策会議が開かれているようだった。聖女ラヴィエラの時代に築かれた防護壁を通過して悪獣が現れるのは稀なことであるらしい。
しばしば黒竜公、エヴァリスト領へ小型種が入り込むことはあったようだが――訓練された兵士であれば簡単に倒せる程度の強さだったという。
だがあの日、フレイヤ・グリーデの邸宅に現れた悪獣は……アンジュが初めて目にしたせいであるかもしれないが、巨大で凶悪そうに見えた。あの耳障りな羽音と鳴き声がいまも頭の中にこびりついて離れない。
あんな恐ろしいモノとカイルは戦ってきたのだ。
勿論、ダンスパーティーの夜のように一人きりで対峙するわけではなかっただろう。悪獣とは徒党を組んで戦うものだと話に聞いている。それでも危険とはずっと隣り合わせにいたわけで――。遅くなるから先に眠っていていい、そう言われていたのに落ち着きなく自室をうろうろしてしまっていた。
そしてちょうど外で馬の嘶きを聞いて慌てて部屋を飛び出し、階段を駆け下りていた。
「起きていたんだ――ただいま、俺の奥さん」
玄関で執事と共にカイルを出迎えると、少し屈んで額にくちづけをしてきた。こういうあいさつ程度のキスであれば次第に慣れてきて、動揺することも減りつつある。
「おかえりなさいませ」
「うん……いいね、こういうの」
「『夫婦っぽい』、ですか」
「そう。ねえ、ダンテならわかってくれるだろう? うちの妻は本当に可愛いんだ」
「左様でございますね」
そこは合わせなくてもいいのだが律義に執事は頷いてみせた。そんな配慮が少々恥ずかしい。コートと帽子を預け、カイルは書斎へと向かった。そのあとに続いてアンジュも部屋の中に入る。
引き出しを探ってカイルは琥珀色の液体が入ったボトルを取り出した。振ると中の液体がきらりと揺らめく。
「ブランデーでも飲むかい?」
「……私は、やめておきます」
「美味い酒だよ。エヴァリスト領の名産なんだ」
封を切っただけでもふわりと漂うにおいにくらくらと眩暈がした。香りだけで酔ってしまいそうだ。アルコールの強い酒なのだろうということはわかる。そういえば父であるロージェル伯爵にも「男に酒を誘われたときは必ず下心があるときだから断りなさい」と強く言われていたことをふと思い出した。
「あるんですか……下心?」
「わあ、アンジュは警戒心が強いね。まあおおむね正解だけど」
ソファに座りグラスを揺らしているカイルをすぐとなりで眺める。
「たとえばどんな?」
「今夜、君を抱きしめて眠りたい」
それならいつもやっているのとほとんど同じであるのだが、やけにカイルは疲れて見えた。よほど会議が紛糾したのだろうか。それで癒しの聖力を求めている、とか。まさかとは思いながらも、冗談めかせて言った。
「……人恋しいのですか?」
「君が恋しいんだ」
カイルはアンジュの肩を抱いて引き寄せた。カイルの腕に抱かれていると、どきどきと胸が高鳴るのがわかる。嫌だと思っているわけでもないのに、うなじのあたりがざわりとするのだ。結婚初夜のときのことを思い出す。
あの日以降は、アンジュの強い主張により同じベッドで眠りに就く程度で子供が出来るような行為はしていなかった。だが――男性にはその手の欲求が絶えずあると聞く。それをアンジュが提案したようにほかの誰かで発散しているのだろう。
ふとそんなことを考えると胸の中が妙にもやもやした。隣にいるのは自分なのに、彼が遠くにいるようなそんな感じがしたのだ。それをさみしいと感じてしまっている。
愛人でも作ってください、などと言いだしておいてなんだ、とアンジュは自分でも呆れていた。
「あーあ、どうしてわかってくれないんだろうね。俺が君を愛しているって」
「……私の聖力を、でしょう」
ぼそりと呟くようにして言うとカイルはほんの少しだけ悲しそうに唇をゆがめた。どうせ演技なのだろうけれど、真に迫ってはいる。
「君は氷みたいだね――本当は脆いくせに固い振りをしている」
「水のようにさらさらと流れていく貴方とは違うのです」
「俺は水なんかじゃないよ」
グラスの酒をちびりちびりと飲んで、カイルは嘯いた。
「もっと熱いものだ、凍てついた心を溶かしてしまえるほどに」
「言っていて恥ずかしくならないのですか――?」
聞いている方はもうすでにかなり恥ずかしい。かあっと熱を帯びた頬を見てにたやりとしたカイルが顎を掴んで仰のかせた。
キスがいつもにも増してくらくらするのは酒精が強いせいだろう。ひどく熱くて火傷しそうにも思えた。
「そういえば、今日は悪獣の件を話していらしたのでしょう?」
「おっと、話題を変えたね」
「元から気になっていたんです」
「ふうん。だから起きていてくれたんだ。明日にでも君に話そうと思っていたんだけど、大丈夫? 眠くない?」
「……寝付けそうにないですから」
ぼそりとため息とともに吐き出せば「じゃあ夜更かししようか、一緒に」とカイルは子供みたいなことを言いだしてアンジュを困惑させた。
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